第8話 白虎神獣ときめき想ひ出・日常譚 ~ とびだせ♡みゅんみゅん ~
「信じられないくらい、穏やかな日々だわ……」
玉案(※美しい机)にて、左手で頬杖を突きながら、右手は筆を持ち記録をする。内容は近所の人々への処方など、症状や対処を事細かに記しているが、その作業すら桃花には休憩時間も同然だった。
洗練された書斎に、円形の窓から差し込む光も麗らかで、まるで聖域のような空間と化している。虫よけのために焚かれている香も錬丹術によるもので、効果は抜群ながら薫り高い逸品だ。
いっそ神気さえ漂う室内で、広々とした床の柔らかな敷物の上、〝くあ〟とのんびり欠伸するのは白い毛並みの大虎。
暇を持て余した神獣の白が、起き抜けに自身の主へと問う。
『フム。……タオファよ、その仕事、良ければ我も手伝おうか?』
「え、ええっ? でも、その……こんなこと聞いちゃ失礼かもしれないけれど、字とか、分かるの? 虎さんなのに……」
『おっと、見くびってもらっては困る。我は白虎神獣、まさしく神なるぞ。確かに人の言語は時代や地域によって千変万化し、複雑ではあるが……悠久を知る我には無問題。暇を持て余した神々の戯れに、筆記技術くらい習得しているからな!』
「まあ、すごいわっ。パイったら、色んなことができるのねっ」
『フッ、神獣ですから。……つきましては、さすがに虎の手で筆を執るのは困難ゆえ、人化させて頂きたいのですが……』
「モフモフは心底から惜しいけれど、必ずや一時的なものであると天地神明に魂魄を賭けて誓えるならば、普段もそんなに重く考えなくていいのよ~?」
『は、はい、肝に銘じます。で、ではとにかく……叭!』
軽い口調でかなり重めの釘を刺された気はするが、四神が一柱たる白虎神獣が恭しく畏まりながら〝人化〟した。
白髪にして眉目秀麗な長身の偉丈夫が登場するも、すぐさま主の傍の机に着き、助手の如くに事務作業に没頭する。体格に比べて机が低いせいか、背を丸めてこじんまりとした様子が、何となく虎の姿と重なって可愛げがあった。
そうして作業に取り掛かる白に、桃花も興味津々で覗き込む。すると、言葉は驚くほど流麗に走っており、桃花もつい驚いてしまうほどだ。
「! まあっ……すごいわ、パイ! 本当に文字を書けるどころか、私より達筆じゃないかしら?」
「ハハ、いやいや、我としてはタオファの字のほうが、柔らかで安らぐ……スワッ!? たたタオファ、か、顔が近いような……!?」
「本当に上手だわ……え、パイ、今なにか言った?」
「い、いや何も! ハアハア、人化している状態で、こうも距離が近いのは珍しいどころか、初めてでは……うう、人の身ゆえか、我も何やらおかしいっ。何なのだこれは、悠久を知る我とて全く知らぬ感情ッ! くっ、耐え忍ぶのだ、我ぇっ……作業に、作業に集中して……ウオオオ!!」
「まあ、何だか複雑な感情を文字に叩き付けられているようで、妙に情感豊かだわ……石おばあさんの〝風邪気味〟という記載に、血が滲んでいるかのよう」
感心しきりの桃花と、作業に心血を注ぎこむ白。この珍妙なる一時に、桃花は不意に思い立って尋ねた。
「本当に……ほんの少し前までとは信じられないくらい、穏やかな日常ね。何だか私、パイに出会った日から、全然変わっちゃったみたいだわ。都ではあんなに疲れ切って、何もかもにうんざりしていたのに……それが今はこんな時間を過ごせるなんて、信じられないくらいよ」
「んふうっ……ふ、フム。タオファはあの時、それほど憔悴していたのだな。しかし我と出会ってから、心変わりをしたということか。ならば、あるいは我の加護が少しは作用したやもしれぬな。弱っていたとはいえ、な」
「え……パイの加護、って。つまり白虎神獣さんの?」
「ウム。白虎は幸運の象徴としても崇められる神獣。出会った頃、タオファが不幸せであったというなら、その不幸を避けるための行動が無意識的に呼び起こされたのやもしれぬ。まあ絶対とは言い切れぬし、タオファのことよ、モフモフに傾倒しすぎるがゆえの決意だったかもしれないがな。はっはっは」
「モフモフ……ううん、だとしても、パイのおかげだと思うけれど。でも、そう……パイのおかげで、私は。………」
冗談めかして笑う白に、桃花は暫し沈黙し――すっ、と彼の頭に白魚のような手を伸ばした。
「……よしよし、本当にありがとうね、パイ♪」
「ハ。……ほ、ほああっ!? えっタオファ、えっ……ど、どうしたのだ、急に撫でてきて……!?」
「うふふ、今までだって、何度も撫でさせてもらっているわ。まあ今の状態だと、珍しいかもだけれど……たまには、いいでしょう?」
「そ、そんなことを言われても、なぜだかその、いつもと感覚が違うような!? っ……く、くううっ……ッ!」
いつもの毛並みと違うさらさらとした感覚も、これはこれで撫で甲斐がある、などと桃花が考えていると――白の口から言葉が飛び出した。
「みゅんみゅん♡」(低音)
「パイさん虎じゃないですよ今」
「ハッしまった、昂る気持ちが抑えきれず、つい!」
美男声とはいえ低めの〝みゅんみゅん♡〟は、なかなか議論の余地がある響きだ。すん、と真顔になった桃花が手を引き、出来上がった記録を棚に収納しようとする。
「さて、パイのおかげで仕事も捗ったわ、ありがとうねっ。えーと、順番に並べないと。石おばあさんはこちら、程さんは――」
「――タオファ、危ない!」
「えっ? ……きゃあっ!」
不注意か、木簡や文書が落ちないよう重石にしていた文鎮が、桃花の頭上に落下した。あわや激突かと思った直前、衝撃の代わりに大きな影が差し込んでくる。
白が庇ったのだ。恐る恐る顔を上げた桃花がすぐに理解し、彼を慮る。
「パイっ……ご、ごめんなさい、私、不注意で! 怪我はない!?」
「うん? はは、どうということもない。人化しているとはいえ、我は白虎神獣ぞ? 人の身とはいえ大虎の頑強さを具えておる。我は何ともないし……何より、タオファが無事であれば、それ以上のことはないのだ」
「! そ、そう……よかったわ、怪我がなくて。それと、その……私のことも心配してくれて、ありがとう」
「いやいや、そんな。……ハッ!? う、うぐうっ、イタタっ……大丈夫かと思いきや、先ほどぶつけた頭が急に痛み始めたぞう! これは是が非でも、タオファに優しくなでなでされつつ治療してもらわねば……」
「文鎮が落ちてきた位置が私の頭上に近いことを鑑みるに、人の姿のパイに当たったとしたら上腕部ほどよね? 怪我がないようで何よりです、お大事に……」
「ああっ冷静かつ的確な判断! くそうっ、しくじったっ……なでなで好機を、みすみす見逃してしまったァァァ!」
何やら後悔が根深い様子の白に、すっ、と桃花は背を向ける。
ただ、桃花は背を向けたまま、そっと顔に手を当てて――
「……? ?? う、うぅん……何だかお部屋、暑くなってきたかしら?」
なめらかな白い頬をほんのりと朱色に染めて、不可解そうに呟くのだった。




