5-27 昔噺の追憶(27)
ご拝読いただきまして、ありがとうございます。
苦手な方は、お閉じください。
よろしくお願いいたします。
炎上発言であるが、実際に我が子だというのに次子からは“一生涯無償労働実子”にするほど『感覚麻痺』するほどの常識すら一筋縄ではいかぬ時代。
長い年月を掛けられ、血の味を憶えてしまった土地というのは…代価として“富”と“繁栄”等を齎す反面、それ相応の『代償』を求める。
生活を切り詰めてでも、後に限界集落と化しても――…より良い“富”と“繁栄”等のために『求められた好物』を後戻りどころか、止めてはいけない。
止めてしまえば、村どころではない――…より良い暮らしから一瞬で、夢幻として消え去る。
――良い“夢”から覚めた、が…正しいだろう。
夢から覚めたら『何が』残っているのか?それとも“残っていない”のか――…周囲を見渡せば『恐怖』と『絶望』しか、残っていない。
土地神は、時に“飽きる”のだ――…厭きる時もあるが、大半は『飽きる』のだ。
飽きるのが、早いため“遊び感覚”で『無理難題』な要求を繰り返される――…しかも長期間、だ。
大半の供物は――…取れた米や野菜、山から採った季節の果物や山菜や茸、草花を奉納されるが…忌み地を守護する土地神様は“それだけ”では、足りない。
しかし、とある忌み地では――…山で、山菜や草花を採取した後に軽く土を掘り…その掘った個所に『少量の血液』を“奉納”する。
その血を奉納する事で『山の神様』から目に見えない“お守り”として、一日分だけを提供してくれる。
――要は、熊や狼等の肉食動物から身を守られながら山から出られる。
また山への用事でも同様だ。
山への用事というのは、奉納である――…目的により山の一部を開拓しながら人が、住みやすいように平地しているため既に怒りを買っている。
現在も土木工事や家等の建築の際に行う神事である『地鎮祭』をします――…地鎮祭とは、建物の建築工事を始める前に土地の氏神様に対し、工事の安全と新居に住む家族の健康や繁栄を祈願する神道の儀式です。
一般的には神主を招いて行われ、土地の利用許可を得る意味合いも持っています――…そして、地鎮祭の次に“上棟式”と“竣工式”という儀式を行います。
上棟式――…建物の骨組みが完成した際に行われ、工事の順調な進捗への感謝と引き続き安全に工事が進むことを祈願します。
竣工式――…建物を完成したことを祝い、今後の安全と繁栄を祈る『儀式』ですが…意外にも一般住宅では、行われない事も多いそうです。
――当たり前に執り行っている“儀式”でも『当時』は、執り行っていなかった。
この村も例外ではない。
しかし、アステカ神話の“太陽信仰”のように『生贄』を奉納する“きっかけ”となったのは――…見える化した、生活苦となるほどの環境変動だろう。
当時、手に取るように誰もが「迷信」と――…見向きもしなかった事を『被害』に遭えば、嫌でも対策と対応を考慮し…後に従う。
土地という名の“命”を削り、別の新たな『生命』を育む事を繰り返し続けた“代償”の『ツケ払い』なのだ。
――天“から”の恵み。
山“から”の恵み。
海“から”の恵み。
日本でも海外でも欠かせない“自然産”であり“天然物”の『仏心』にて『物資』を与えてくれる代わりの“代価”を請求されているだけだ。
生贄とは『現金』の代役だ――…つまり、買い物。
豊かにするのに“土台”は、必要――…その土台を基盤に気の遠くなるほどの労力と莫大な資金が、どうしても掛かるだけでなく“維持費”と継続も必要。
何よりも我が国“日本”は――…どの場所でも八百万の神々が、住まい見守り続けられている“日の出の本土”への『謝礼』という名の『返戻』をする。
神様の多くは、お恵みで“育てられた作物”等を奉納する事で『神々への感謝』と『敬意』と『尊敬』を示すようになったのは…古墳時代と、言われているが…それでも及ぶのに抵抗する土地も存在していた。
繰り返すが、アステカ文明のように“太陽信仰”のように『血を流す』事で“恩恵”を早く授けられる方が『理にかなっている』のだ。
――時に“災”と“害”が、長引いてしまうと位の高い僧様や巫女様が、自ら『即身仏』となり“土地神”となる神事の一つだ。
そして、その『供物』を奉納するために“自分自身”に『選ばれる可能性』を存在しているため他所から調達しなければならない。
供物とはいえ、動物の“命”と人間の“命”を『物』としか、見なくなった者の欲深さは――…恥という名の“泥を塗る”だけである。
付け加えるかのように一度でも知ってしまった『甘い汁』というものは――…美酒や美食に近く、快楽と快感を得る“劇薬”に似た“麻薬”だ。
だが――…必ず『落ち度』が、起こるのだ。
毎日、好物を出されると厭きるように“別”を要望され続ける日々へと変貌を遂げると同時に今更ながらに気付くのだ。
――己以外、誰も『居ない』事に…。
実の親兄弟だけでなく、親戚も妻だった者も捧げた…欲望と欲情に包まれ続けたい己の“極上の暮らし”を継続と持続をするためだけに『人身供犠』という名の“必要犠牲”と「村のため」だと、称して――…己にならないように騙し討ちをしたのだ。
月日か年月が、過ぎると…次第に“飽きられる”もの――…回り道の手札が、底を尽きれば『最後』であると同時に『最期』なのは…明白。
――後にも先にもない。
気づけば“崖っぷち”に立たされていた恐怖心と絶望感は、この現実に受け入れられずに微動だに出来ない。
しない、ではなく――…出来ない、のだ。
――この場合『身動きを封じられる』が、正しいだろう。
血液を好む土地神様の『余興』である事を気づかずに…絶妙な匙加減で“生贄”に回ってきたにすぎない。
その余興というのは、なんてことはない――…自惚れを『気に入っていた』ではない“好みの肉付け法”を行っていたに過ぎない。
――待っていたのだ。
要は『美味しくなる』頃合いを嗤いながら見定めていただけの事だった。
――まるで、大好物の果物狩りのように…食べ頃となった野菜や果物の“収穫”に近いだろう。
または、木の形成層…いや、気の年輪よりも『バナナの追熟』に近いのかもしれない。
因みに“追熟”とは――…収穫後の未熟な果物や野菜を一定の温度で、数日置いて完熟・甘さ・香り・食感を高める事を指すそうです。
主にバナナ・キウイ・洋なし・アボカド等に行なわれます――…追熟の進行は、やや高めの温度や室温を管理すると『美味しい仕上がり』になります。
大事な“注意点”を上げますと――…そのまま冷蔵庫に入れると完熟していないバナナを低温障害を起こしながら皮が、黒くなります。
同時に黒くなっても『実』は、熟していないため甘味のないバナナになります。
追熟し全体が、黄色くなった後であれば入れても大丈夫です――…乾燥防止に新聞紙に包んで、約16~25度のお部屋でなら7日間まで日持ちします。
さて――…土地神様の掌という名の“食事会”は、既に完成しているだけでなく…期間を掛けられていた事を知れば、どうなるだろうか。
既に『切り替え』と『後回し』の出来ない“順番”は、長くも短くもある期間を得て書籍のページを捲るように甘い汁を飲みすぎた者の末路は――…つけ払いをするかのように己へと返金戒厳令を敷かれる。




