最後の敬礼
昨日の、出撃の疲れがまだ残っていた。
新谷は、宿舎の畳の上で、起きるべきか考えていた。
今や、新谷たちの部隊は、迎撃専門の部隊となっていた。
来る日も、来る日もB-29と艦載機との戦闘に明け暮れていた。
鹿屋の基地で、あの有名な特攻司令が紫電改での特攻を言い出したので、基地を国立に移り、そこから大村に移動した。ここでも、比島で特攻特攻と叫んだ、参謀が来たので、特攻の話がきて直ぐに、移動させたらしい。
朝から、快晴だった。
今日は、制空飛行で喜界島までの哨戒飛行だった。
紫電改は、発動機の不良で稼働率は非常に低かった。せいぜい40%程度だ。無理もない、オクタン価100て゜の設計で作られたエンジンをオクタン価90そこそこで回すのだ。18気筒の発動機は無理やり小型化されて狭い機首に入れられたので、整備のスペースもなく、配線の取り回しも悪いため、紙で絶縁した電線が溶けて漏電したりアークしたりしていた。
新谷は、竹部の助言通り、いつも整備兵と一緒に機体を整備した。
搭乗員の中には、整備は整備兵の仕事だといって、相手にしない者もいたが新谷は一緒に整備をした。
それでも、誉発動機は、油漏れがひどく、稼働自体に問題が出ていた。
整備を終えた機体で新谷は2小隊の8機で哨戒任務へと出た。
鹿児島を抜けて、いよいよ喜界島へと差し掛かったころ、慶良間付近から飛んできた、F6Fと遭遇した。
すぐさま、戦闘に入ったが、敵は戦う意志がないらしく、上空へと退避した。
急上昇で、発動機を全開にしたところ、オイルが全面のガラスに飛び始めた。燃料節約のために松根油を混ぜた燃料を使用したからだと思った。
いよいよのところで、鹿児島が見えてきて、大村まで帰れないと思い、鹿児島の鹿屋の基地に降りた。
以前いたところなので、なんとかたどり着いた。
基地には、日の丸を塗りつぶした練習機の白菊が何故か機駐していた。
不思議に思い、整備兵へ聞くと暗い顔をして、
「50番(500kg爆弾)を積んで、特攻に行くんですよ」
新谷は、
「ばかな、練習機で沖縄まで行けるわけがないだろう」
と叫んだ。
「25番(250kg爆弾)を両翼に下げる予定が、あれ木製で布張りでしょう持たないということで、座席の横に積んでいるんですよ。」
と整備兵は、辛そうに言った。
白菊とは、500馬力のエンジンで、航続距離も1000km程度の練習機だ。木製のプロペラで、アルコール燃料で飛ぶ玩具みたいなものだ。
速度も200km/hぐらいしか出ない。
沖縄まで、零戦なら3時間程度だが、おそらく倍の6時間はかかるはずた。
この頃の特攻の命中率など、20%切っていた。
ましてや、高性能のF6Fやコルセアに簡単に落とされてしまう。
全滅は目に見えている。
100時間も飛んで練習生だろうに、500kgを抱いて離陸できるはずがない。
新谷は、もう戦争状態ではないとさえ感じた。
「あれじや、到底 沖縄までたどり着けんしように、軍令部は何を考えているんだ」
と吐き捨てるように言った。
「だから、夜に飛ぶんですよ」
新谷は、嘘だろうという顔をした。夜間航行は、非常に危険な航行だ。陸地の灯火等があるならまだしも、暗く目標もない洋上を飛ぶのは自殺に等しい。
「無理だろう、夜間航行など、一体何を目標に飛ぶんだ」
「観測員と一緒に飛ぶんですよ」
新谷は唖然とした、力量がないから半人前を合わせて一人前にする。そんな発想に戦争継続を叫ぶ軍令部の無能さを垣間見た。
「私は、あいつら子供が乗る白菊なんぞ整備したくありません、中尉殿、なんで若い年端もいかない子供が、爆弾抱いて敵艦にっ込まなくてはならないのですか。遊びたい盛りじやないて゜すか」
50歳を過ぎているらしい、整備兵は目に涙をためていた。
その後、新谷も整備兵ももくもくと発動機の整備をした。
シリンダーを外して、燃焼室を確認、プラグの点火確認、パッキングの取替と漏電している電線の補習とやることはいくらでもあった。
なんとか、パッキンの交換で飛べる目途がつき、午後3時を過ぎてさすがに、疲れたので休憩をした。
すると、4~5人の少年兵が整備庫に入ってきた。
どうやら、紫電改を見に来たようだった。
年長者らしい一人が、新谷に声をかけてきた。
「中尉殿、中尉殿が搭乗されておられます、機体を見学したいのでありますが、よろしいでありましょうか」
と敬礼をしながら、新谷に訊ねてきた。
「何処の所属か」
と新谷が尋ねると
「徳島第五白菊隊であります」
と全員が敬礼をした。
見たところ、全員が10代だ。童顔からして下は15、6歳だと見てとれた。
「いいよ、私は343空の新谷中尉だ。」
わ~という声がして、みんなが紫電改に群がっていた。
「新谷中尉、なんという戦闘機なのですか」
と一人が尋ねた。確かに、紫電改は秘匿兵器であり、公にその存在は知られていない。
だから、陸軍の戦闘機から銃撃されたり、基地から高射砲で撃たれたりしたから、わざわざ陸軍の基地に運んで行って見せたほどだ。
「紫電21型だ、2000馬力あって、20mm機銃は4門、最高速度は600km/hを超える、世界一の戦闘機だ、グラマンにも負けないぞ」
と新谷はあえて明るく言った。
新谷には、この子たちが白菊で特攻にいく子供たちだと分かっていた。
「操縦席に座るか」
と新谷が言うと、我先にと操縦席に変わりばんこに座って、操縦桿を動かしていた。
その姿を見ながら、新谷は胸が締め付けられるを感じていた。
新谷は、整備兵の一人にお願いして、酒保に走らせお菓子やらサイダーを買って来てもらった。
整備兵と一緒になって白菊隊の練習生へ飲食した。
練習生達は、日ごろ食べれない甘味もあって、喜んでいた。
「いつ、出撃するんだ」
と年長の練習生に訊ねた。
「今日の1800です」
と元気に答えた。
新谷は、全員にキャラメルを渡すと
「今日は満月だ、月をよく見て飛ぶんだぞ、発動機の不調の時は遠慮せずに帰ってこい、海面を飛ぶときは、高度に気をつけてな、ぺらで海面を叩くときがあるからな。」
「はい、見事敵艦を轟沈してまいります。」
と全員が一斉に答えた。
新谷は、なにも言えなかった。
もう、この戦争は負けると確信した。
一日でも、早く終われば、この子供たちが死ねことはなくなるのに、軍令部の状況把握のなさを恨んだ。
もともと、レイテ突入作戦時の一時的な戦法だったはずの特攻が、ひとり歩きをしてしまっていた。
練習生たちは、まるで遠足に行くかのように新谷の前から去っていった。
「整備長、飛べるか」
整備長は察したのか、
「一時なら飛べますよ」
「指揮所には、整備確認で1700に飛ぶから」
「分かりました」
新谷は、直援はできなくても空で、白菊隊を見送りたい思った。
確認飛行として、新谷は離陸した。
開聞岳を旋回して基地上空を哨戒した。
1830に、白菊攻撃隊が離陸を始めた。
基地上空で、編隊を整えてから沖縄方面へと機首を向けた。
新谷は、編隊上空をしばらく飛んでいた。
後部の搭乗員が盛んに手を振っていた。
少し近づくと、先ほどの年長の練習生だった。
顔が見えるくらいに、接近した。
すると、練習生が風防をあけて、敬礼をした。
新谷も返礼した。
新谷の目から、涙がとめどなく流れた。
できれば、彼らの直援として飛びたかった。
新谷は機を反転させて、鹿屋基地に着陸した。
深夜に指揮官機から打電で突入したことが確認された。
途中で、落とされなかったんだなと新谷は思った。
この白菊特攻は、来るべき本土決戦時のための戦果確認の試験実施だったらしい。
白菊を100程度飛ばして、その戦果を確認する。
白菊隊は、過大な戦果を残し(130機中50機以上が突入に成功した)、その後の白菊特攻は実施されずに本土決戦用として温存されている。
さらに、特攻専用機と言われる剣の開発がされ、離陸後に車輪を落とし着陸できないような機体まで生産されるよになった。
戦後に判明するが、白菊や赤とんぼと呼ばれた九三式中間練習機においては、機体が木製で翼が布張りであっために、レーダーに探知されにくかったことと、夜間攻撃のためその突入率が高かったらしい。
非力な工業力が生んだ奇跡である。
沖縄までの5時間以上の飛行は、おそらく想像を絶するものに違いない。だから初期の白菊には無線機が積まれていいため、暗号ではない平文で、「お父さんお母さんさようなら」などが打たれたため、その後は指揮官以外の無線は下ろされたという。これが、本当の心境に違いない
だからこそ新谷は、この日の"最後の敬礼"を生涯忘れることはなかった。




