Maria
不時着してから、直ぐに艦載機による空襲があり稼働可能な機体の多くが失われた。
新谷は、しばらくレガスピ基地に滞在していたが、マバラカット原隊に復帰という命令を受けて、定期連絡用の一式陸攻に乗り、朝焼けの中をマバラカット基地に戻った。
到着して、真っ先に竹部の姿を探した。
整備庫にも、宿舎にも竹部の姿はなかった。
直ぐに指揮所に向かった。
指揮所にいた、大尉に竹部の消息を聞いた。
「わたしと一緒に直援で出た、竹部飛行兵曹長は帰還されていないのですか」
大尉は気の毒そうに、
「竹部飛行兵曹長は、未帰還だ。あの日に飛んだ者てせ帰ってきたのは竹部少尉のみです」
といった。
なんてことだと、新谷はは怒りがこみあげてくるのが分かった。
自分には、生きろと言っていながら自分が死んだらどうなるんだ。
新谷は、自分の身代わりに竹部が死んでしまったような気がした。
やりきれない気持ちで、兵舎に戻ると自分寝床がきちんと整理されていることに気が付いた。
座り込んでいると、通信兵がおずおずと入ってきた。
「新谷少尉であらせられますか。」
気が立っていた新谷は、ぎろりと通信兵をにらんだ。
「竹部飛行兵曹長の、最後の打電を受信したものですが、最後の打電の中不可解なものがありましたので、僚機であらせられました、新谷少尉にお尋ねに来ました。」
「なんだ、その内容は」
「はい M・A・R・I・Aと受信しました。」
「Maria」
と新谷はつぶやいた。
「何かの暗号でしょうか、暗号表でも解読できませんでした。」
「いや、俺に対しての、特別暗号だ。Mariaは母、航空母艦という意味だ」
「そうでしたか、戦果確認機が帰ってこないので、戦果未確認でしたが、空母がいたんですね」
「ああ、そうだろう」
「ありがとうこざいました、司令に報告してまいります」
新谷は、竹部が本当にSaraのことが好きで、その子供のことも大切に思っていたのだ。
新谷は、この戦争の理不尽さを恨んだ。特攻に志願した自分が生き残って、いや竹部の思いにより生かされて、一番生きていなければならない、竹部か死んでしまう、理不尽さを。
この後、竹部が特攻に出撃することはなかった。
年が明けてすぐに、マバラカット基地も敵艦載機と爆撃に攻撃を受けて飛べる飛行機のほとんどを失ってしまった。
敵のルソン島上陸は目の前に迫っていた。
1月9日に、敵上陸部隊が。ルソン島北部のリンガエン湾に上陸を開始した。
クラーク基地周辺では、航空隊も陸戦隊として、繰り入れられて、敵に飛行場を利用されないようににわか守備隊が編成された。
当初、新谷達も陸戦隊として、戦うことになっていたが、搭乗員養成には時間がかかり、今後の特攻作戦に支障が出るとの理由で、台湾へ転進させることなった。
新谷たちは、飛行機で飛べば1時間もしない距離を、敵の空襲を避けるため目に夜間に移動して、迎えの飛行機で、台湾へと転進した。
ここ比島では、昭和19年10月21日から昭和20年1月25日の3か月間に、特別攻撃により陸海空軍で535機の未帰還機をだしていた。
戦果しては、艦船沈没数16隻、艦船損傷数73隻、命中率50%以上だった。
この戦果、良いのか悪いのかは、わからないが組織的な航空戦は正規空母は一隻もなく陸上からの攻撃には特別攻撃しかなかったことは否めないが、そこまでして戦争継続をしなければならなかったことは、そこまで追い詰められていとしか判断できなかった。
台湾へ転進してからも特攻は続けられたが、前年の台南沖空戦で壊滅的な打撃をうけており、まともに飛べる機はなかったが、整備されては次々とリンガエン湾の機動部隊へ突入していった。
新谷の特攻任務は解かれることが無かったが、なぜか直援機及び戦果確認機として飛び続けた。
新谷は、竹部の教えどおり機体整備を万全として、飛び続けた。
しかし、敵の戦闘機に撃ち落されたり、敵の艦砲射撃の中で撃ち落される味方機を見るたびに心は荒んでいった。しかし、死ね訳にはいかなかった。竹部が身を挺して救ってくれた命をむざむざ捨てる気はなかった。皮肉にも、新谷の技量は向上し直援機としての任務を確実に遂行することなった。
昭和20年3月に、新谷はその戦績から中尉に昇進し、特攻に任を解かれて、新しくできた第三四三海軍航空隊への転任を命じられた。
新谷は、松山基地へ着任した。
この基地は、他の基地とは違っていた。
新谷が乗る機体は、最新鋭の紫電21型だった。
初めて乗る機体は、零戦より扱いが違っていた。
まず、発動機が零戦り2倍の二千馬力級の誉エンジンであり、何より燃料タンクに防弾と自動消火装置が施されており防弾ガラスも装備されていた。
零戦とは、基本的な作りが違っていた。
20mm機銃は、4丁も装備されており、携行弾数900発。
零戦の20mmとは違い、かなりの命中度だった
自動空戦フラップにより、機体重量が増した分の旋回性能を補っており敵の最新のF6Fにも対抗できる機体だった。
スピードも600km/hを超えて、F6Fともまともに戦えそうだった。
新谷は、特攻でなく本当の戦闘機乗りとしての戦いができると感じた。
空中電話の感度もよく、電探らの情報を受けての空戦は迎撃戦が主なため、長距離を飛んでの空戦でないため全速での戦闘が可能だった。
事実、新谷が着任する前に、松山基地上空での迎撃戦でも零戦初期のように大戦果を挙げている。
新谷も、この戦闘機で九州方面のB29の軽撃に参加した。
B29の武装12.7mm×12門と20mm機関砲があり、編隊で攻撃してくるのでこれらはちょっとした弾幕になる。過給機が搭載されており、高高度での巡行が可能である。
ましては、高高度では、零戦の追いつけない速度を出しおり、紫電21型でもある程度高高度性能が優れているとはいえ、6000m超えると途端に発動の出力がさがり追撃するのがやっとだった。
幸いなのか、航続距離が短いため沖縄特攻作戦への参加はなく、奄美大島や喜界島付近にて特攻隊の前路哨戒や制空戦闘が主な任務となり、九州の鹿屋基地に移った。
新谷のフィリピン・台湾で鍛えられた腕は、紫電21を難無く乗りこなし、P51やF6Fを撃墜していった。
それでも、特攻隊を見送るのは辛かった。
まだ、B29との戦闘の方が気が楽だった。
九州へのB29の爆撃が、激しさをましてきた4月には、長崎の大村に移動して、小倉や佐世保への空襲の迎撃によく上がった。
爆撃高度まで下がって、爆弾倉を開いたところを上空から前面に急降下して、20mm4門を一斉斉射して離脱戦法を取った。
護衛のコルセアやF6fとの戦闘となったが、速度・ダイブで引けを取らないので2機編隊、4機編隊の戦法で攻撃した。
しかし、連日の迎撃とオクタンの低い燃料と粗悪な潤滑油の性で、機体の稼働率は徐々に下がり、消耗戦のていを見せていた。
それでも、新谷は生きるために戦い続けた。
自分を生かしてくれた、竹部のために。




