第九十三話「ありがとう」
――灯の、目の前が真っ暗になった。
母。
自分を産んでくれた人。
死んだと言われていたけど、母を恋しいと思わない日はなかった。
その母が生きていただけでも衝撃なのに――自分の手で、刃を突き立てる。
母を殺したシステムを、母を殺さないと止められないなんて。
あまりにも残酷な選択を、灯は突きつけられ、心を押し潰されそうになっていた。
その様子を見てい、翔が、静かに前へと進み出た。
「――俺が、やる」
灯は、はっと、顔を上げた。
翔の目には、灯に重荷を背負わせまいとする、覚悟が宿っていた。
自らが悪役を買って出ようとする、決意と優しさ。
翔は自分の剣を抜いた。
「――だめ、です」
灯は、震える声で、はっきりと告げた。
「ごめんなさい、はじめましての人だけど、あなたが優しい人だって分かる。でもこれは、あたしが、氷雨家のあたしが、やらなきゃダメなんです」
灯からの言葉には、強い意志が宿っていた。
翔は、黙り込んだ。
灯の意志を感じ取とり、ゆっくりと一歩、後ろへと下がる。
玲は環の側について、様子を見守っていた。
「――俺がいる」
晴は言った。
「灯に、全てを背負わせない。それに、氷雨だけの問題じゃない、東雲の問題でもあるんだ」
その言葉に、灯の目から、新たな涙が溢れ出した。
堪えきれずに、灯は小さく嗚咽を漏らした。
晴は、視線を機械の中の、雫の姿へと向けた。
降り続ける雨が、静かに、濡らしている。
「――雫さん」
「会えないと、思っていました。中身は、別の人間に、なってしまっていても――それでも、生きてきてくれて、嬉しいです」
晴は、深く息を吸い込んでから、続けた。
一つ一つの言葉を、噛み締めるように、丁寧に紡いでいく。
「灯さんを、産んでくれて、ありがとうございます。俺は、灯さんを愛しています。必ず、幸せにします。あなたと、蓮さんの分も」
灯がいなくなってからの旅のすべてが、晴の灯への気持ちをより重く、深くさせていた。
「そして――冴さん、紬さんの分も」
「――晴さん……」
灯は、涙を堪えることができなかった。
晴の、想いの深さに、胸がいっぱいになった。
憎しみだけでなく、鎮魂の言葉を紡げる、晴の優しさに、灯は改めて救われる想いだった。
晴は翔から剣を受け取った。
二人は、互いに頷き合った。
目と目で、確かめ合うように。
しっかりと、握りしめる。
柄に、二人の手が重なり合う。
雫の胸元に、その切っ先を、そっと当てた。
冷たい、金属の感触が、灯の指先にまで、伝わってきた。
灯の手は、激しく震えていた。
涙が、後から後から、溢れ出し、視界を滲ませていた。
「お母さん、お母さん!お母さん!!大好きだよ!!」
十八年分の――すべてが込められた慟哭だった。
刃が、深く――静かに、雫の、体へと突き刺さった。
抵抗はなかった。
まるで、その瞬間を待ちわびていたかのように、刃は、すっと体の中へと沈み込んでいった。
その瞬間、空間全体が、これまでにない、激しい、光と共に揺れ始めた。
眩い、白い、光が、全てを包み込んでいく。
晴は、灯を抱き寄せた。




