第九話 「思い出せない場所」
平日の放課後、七番区の空は薄い茜色に染まりかけていた。
灯はいつものように結衣と校門の前で別れ、一人で坂道を下ってきた。
今日はまっすぐ家に帰るつもりらしく、公園にも市場にも寄らず、七番区の中心を貫く通りを歩いていく。
夕方の商店街は、夕食の買い物客でそれなりに賑わっていた。
魚屋の店先で威勢の良い声が飛び交い、パン屋の軒先からは焼き上がったばかりの香ばしい匂いが漂ってくる。
灯はその喧騒の中を、慣れた足取りで縫うように歩いていった。
晴はその少し後ろを、いつもの距離を保ちながら歩いていた。
「ねえ」
不意に、灯が振り返らずに声をかけてきた。
「晴の家族の話、この前少しだけ聞いたけど」
晴は、僅かに歩調を緩めた。大嵐記念公園で交わした会話
――家族を喪ったこと、養護施設で育ったこと。あの日、彼は自分から進んで、それを口にした。
だが、それ以上の詳細は、まだ誰にも語ったことがなかった。
「あれから、ずっと気になってて」
灯は、ようやく振り返った。夕方の光が、彼女の黒髪と、毛先の淡いブルーを柔らかく照らしている。
商店街の喧騒の中、彼女の周りだけが、ふっと静かな空気に包まれたような気がした。
「晴のお父さんとお母さんって、どんな人だったんですか」
その問いに、晴は一瞬、答えに詰まった。
通りを行き交う人々の声が、遠くに感じられた。
「――覚えていません」
「覚えてない、というのは」
「言葉通りです。当時、まだ幼かったので」
それは、嘘ではなかった。
だが、完全な真実でもないような、奇妙な感触が、答える瞬間に晴の胸をよぎった。
まるで、自分の口から出た言葉が、自分自身を素通りしていくような、ひどく他人事めいた感覚だった。
「顔とか、声とか、何も?」
「……そうですね」
「変なの」
灯は、立ち止まり、探るように晴の顔を覗き込んだ。
通りの端、古い時計店のショーウィンドウの前で、二人は自然と足を止める形になった。ガラス越しに並ぶ大小の時計が、それぞれ違う時を刻む音を、微かに響かせていた。
「三歳って、何も覚えてないほど小さくはない気がするけど。私、三歳くらいの記憶、いくつか残ってるし」
「――たとえば」
「環おばさんに、初めて抱っこされた時のこと。あったかい匂いがしたのと、窓から差し込む光が眩しかったのと。断片的だけど、ちゃんと残ってる」
その指摘は、思いのほか鋭く、晴の中に刺さった。
彼自身、これまで一度も、その違和感に真正面から向き合ったことがなかった。
家族を喪った、という事実だけが、揺るぎない核として彼の中にあり、その周りにあるはずの具体的な記憶
――両親の顔、声、日々の暮らしの断片――は、まるで最初から存在しなかったかのように、綺麗に欠落していた。
「話したくないなら、いいんです」
晴の沈黙をどう受け取ったのか、灯はそう言って、話を切り上げるように前を向いた。
再び歩き出した彼女の背中を、晴は少し遅れて追った。
「ごめんなさい、無神経でした」
「――いえ」
晴は短く答えた。だが、その短い返答の裏で、彼の思考は、これまでにない速さで自分自身の内側を巡り始めていた。
二人はそれ以上、家族の話には触れないまま、灯の家の近くまで歩いた。
別れ際、灯は少し気まずそうに小さく手を振り、家の中へと入っていった。晴は、彼女の後ろ姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。
その夜、晴は自室で、珍しく長い時間、何もせずに座っていた。
調律省が支局職員用に用意している集合住宅の一室。中央塔にほど近い区画に建つ、簡素な四階建ての建物だった。
灰色の外壁に、規則正しく並んだ小さな窓。
廊下には等間隔に照明が灯り、どの部屋の前にも、住人の個性を感じさせるようなものは何一つ置かれていない。
晴の部屋も例外ではなかった。
六畳ほどの居室に、簡素なベッドと机、職務用の資料が積まれた作り付けの棚があるだけの、生活の匂いというもののほとんどしない空間だった。
壁には何も飾られておらず、窓辺に置かれた小さな観葉植物だけが、辛うじてこの部屋に人が住んでいることを示す唯一の痕跡だった。
それすら、支局の備品として最初から置かれていたものを、晴は特に手入れをするでもなく、ただそのままにしているだけだった。
晴は、椅子に腰掛け、目を閉じて、幼少期の記憶をたどろうとした。
養護施設に来てからのことは、断片的にだが思い出せる。
食堂の長い机、周りの子供たちの笑い声、自分だけが浮いていた感覚。
担当の職員に「同じ顔をしている」とからかわれたこと。
それらの記憶には、色も、匂いも、微かにではあるが伴っていた。
だが、それより前
――家族と暮らしていたはずの数年間については、驚くほど何も出てこなかった。
父の顔。母の声。家の中の匂い。
日々の些細な出来事。
そのどれもが、思い出そうとするそばから、霧の向こうに溶けていくように、輪郭を結ばなかった。
まるで、その部分だけが、意図的に切り取られているかのように。
晴は何度も、目を閉じたまま、記憶の奥を探るように意識を集中させた。
だが、探れば探るほど、そこにあるのは白く塗りつぶされたような、均一な空白だけだった。
輪郭のない靄。手を伸ばしても、指先が何にも触れない感覚。
晴は、自分の記憶に、初めてはっきりとした違和感を覚えた。
これまで彼は、幼くして家族を喪ったのだから、記憶が薄いのは当然だと、深く考えることなく受け入れてきた。
だが灯の言う通り、三歳という年齢は、決してすべてを忘れてしまうほど幼くはない。
もっと断片的にでも、何かが残っていて然るべきだった。
窓から差し込む光の眩しさ、抱きしめられた時の匂い、そういう感覚的な断片だけでも
――普通は、残るはずだった。
それなのに、何もない。
晴は、机の引き出しを開けた。
中には、数少ない私物が几帳面に整理されている。
奥にしまい込んでいた、古い身分証明書の写しが目に入る。
「天宮晴」という、改姓後の名前が記されたそれを、彼はしばらく見つめていた。
裏面には、養護施設入所時の記録として、簡潔な数行が印字されているだけだった。
出身地の記載は「北部地域(詳細不明)」。
両親の名は「記録なし」。
東雲、という本来の姓。
その響きを口の中で繰り返してみても、それに結びつくはずの記憶は、何一つ浮かんでこなかった。
ただ、その二文字を見つめていると、胸の奥に、説明のつかない重さだけが、静かに沈んでいくのを感じた。
晴は身分証明書をしまい、椅子の背にもたれて天井を見上げた。
灰色の天井には、小さな染みがひとつあるだけで、それ以外は何もない。
まるで自分の記憶そのもののような、単調な広がりだった。
窓の外、夜空には、いくつかの星が瞬いていた。
灯りの少ない支局職員用住宅の周辺は、街の中心部よりも星がよく見える。
晴は立ち上がり、窓辺に寄って、その夜空を見上げた。
自分の頭上には、今夜も何もない。
感情の動かない、静かな夜空。
だが、その静けさの奥に、何かが確かに眠っているのだという予感だけが、晴の中に、初めてはっきりとした形を持って残っていた。
――俺は、何を忘れているんだろう。
その問いは、答えの出ないまま、深夜まで晴の中に残り続けた。
彼は結局、その夜、いつものように眠りにつくまで、何度も同じ場所に思考を戻し続けることになった。
何もない空白に向かって、意味もなく手を伸ばし続けるように。




