第八話 「隠さない理由」
環の家を辞去した後も、晴の中には、いくつもの言葉が澱のように残っていた。
玲の警告、環の問い、そして戸棚の奥に隠された古い記録の断片。
それらすべてが、彼の胸の中で、答えの出ない重さとして積み重なっていく。
専属監視という職務は、本来、対象の感情の起伏を数値として記録し、閾値を超えれば粛々と調律を施すだけの、単純な仕事のはずだった。
それなのに今、晴はその単純さから、少しずつ遠ざかっていくのを感じていた。
その週末、晴は非番だった。
支局の勤務表には、彼の名前の欄に「休」の一文字が記されていたが、灯の観測は、非番の日にも義務として課せられている。
規定上、専属監視対象の異常反応はいつ発生するかわからないため、担当者は完全な休みを取ることができない。
それでも、制服を脱いで私服に着替えることだけは、晴にとって数少ない、非番の日らしい儀式だった。
彼は私服のまま、七番区の外れ、灯の家の近くの小道に立っていた。
灰色を基調にした普段の調律省の詰襟とは違う、飾り気のないシャツと薄手の上着。
制服を着ていない自分の姿が、これまでとは違う立場でここにいることを、彼自身に思い出させた。
何のために来たのか、職務としてなのか、それとも別の理由なのか
――その境界線は、ここ最近、彼の中でますます曖昧になっていた。
小道の脇には、七番区特有の低い石垣が続き、その隙間から野草が顔を覗かせている。午前中の柔らかい光が、石垣の表面を白っぽく照らしていた。晴は、その光を浴びながら、しばらく所在なく立ち尽くしていた。
しばらくして、灯の家の庭先で、彼女が花壇に水をやっているのが見えた。
環が丹精込めて育てているという花々
――淡い紫色をした釣鐘状の花や、白い小花が房状に咲く種類など、七番区の家々の庭でよく見かける、この季節ならではの品種が並んでいる。
灯はじょうろを傾けながら、鼻歌のようなものを口ずさんでいた。
その頭上には、穏やかな薄日が差し、時折、風に流された雲の影が優しく通り過ぎていく。
「――今日は制服じゃないんですね」
晴に気づいた灯が、じょうろを置きながら声をかけてきた。
麦わら色の帽子を軽く持ち上げ、目を細めてこちらを見る仕草には、監視される側という緊張感がすっかり抜け落ちていた。
「非番なので」
「非番でも来るんだ」
「観測は、非番の日も継続する規定になっています」
「相変わらず、規定、規定って」
灯は苦笑しながら、花壇の縁に腰を下ろした。
土に触れて湿った指先を、ワンピースの裾でそっと拭う。
晴も、少し離れた場所にある木製の柵に寄りかかった。
柵は古びて所々塗装が剥げ、触れると木目のざらつきが手のひらに伝わってくる。
二人の間に、これまでよりも幾分か柔らかい沈黙が流れた。庭のどこかで、小さな虫の羽音が響いている。
「――少し、聞いてもいいですか」
晴が切り出すと、灯は小さく首を傾げた。帽子のつばの影が、彼女の目元に淡い陰影を落とす。
「珍しいですね。あなたから質問なんて」
「灯は、感情を隠そうとしないですよね。学園でも、家でも。嬉しければ嬉しいまま、悲しければ悲しいまま、それがそのまま空に出てしまう」
「それは、隠せないからで」
「いえ」
晴は、言葉を選びながら続けた。
「体質的に隠せない部分があるのは、わかっています。ですが、それだけではないように見えます。灯は、隠そうとする努力自体を、していないように見える。まるで、それが当然だというように」
灯は、少しの間、黙って晴の顔を見つめていた。
花壇の縁に座ったまま、指先で土の感触を確かめるように、じっと動かしている。
乾いた土の粒が、指の間からぱらぱらとこぼれ落ちる音だけが、しばらくの間、庭に響いていた。
「なぜ、そんなに感情を隠さないんですか」
晴の問いは、責めるようなものではなかった。
ただ、純粋な疑問
――彼自身が、感情をほとんど表に出せずに生きてきたからこそ抱く、根源的な問いだった。
灯は、しばらく黙っていた。
庭の花々の間を、小さな蝶がひらひらと飛んでいく。
淡い黄色の羽を持つその蝶は、釣鐘状の花の周りを二度、三度と旋回し、やがて石垣の向こうへと消えていった。
その羽ばたきを目で追いながら、彼女はゆっくりと口を開いた。
「小さい頃、環おばさんに言われたことがあるんです」
「――何と」
「"感情を隠すことを覚えたら、あなたはあなたじゃなくなる"って」
灯は、遠くを見るような目をした。
視線の先には、七番区の煉瓦色の屋根が連なり、その向こうに、うっすらと中央塔の灰色の輪郭が見える。
「最初は、意味がわからなかった。周りの子は、みんな上手に感情を隠してた。悲しくても平気なふりをしたり、怒ってても笑顔でいたり。私だけが、それができなくて、いつも損してるって思ってた」
彼女は、花壇の土をひとすくい、指の間からさらさらとこぼした。
土には、環が肥料として混ぜ込んだ枯れ葉の欠片が交じっていて、それがぱらぱらと乾いた音を立てて落ちていく。
「でも、大きくなるにつれて、少しずつわかってきた。周りの子たちは、感情を隠すのが上手なんじゃなくて、感情を"消す"のが上手なんだって」
「消す」
「うん。隠すのと、消すのは、違う。隠すのは、ちゃんと感じた上で、表に出さないようにすること。でも消すのは、感じないふりをして、本当に感じなくなっていくこと。この国の大人たち、みんな、そうやって生きてる気がする」
灯の声は、静かだったが、確かな芯を持っていた。
風が一段と強く吹き、庭の花々が一斉に揺れる。
彼女の頭上の淡い光も、その風に合わせて微かに揺らめいた。
「調律を受け続けた人たちって、だんだん、何を見ても心が動かなくなっていくって聞きます。天気は穏やかになるけど、その代わり、何かが少しずつ、擦り減っていく」
晴は、その言葉に、自分自身の内側を覗き込むような感覚を覚えた。
感情がないと言われ続けてきた自分。
それは、生まれつきそうだったのか、それとも、いつの間にか"消えて"しまったものなのか
――その境界が、これまで一度も明確になったことはなかった。
柵に置いた自分の手のひらを、彼は無意識のうちに、強く握りしめていた。
「私は、それが怖い。だから、隠さない。隠したら、いつか消えていく気がして。隠したら――私が、私じゃなくなる」
その言葉は、晴の中に深く刻まれた。
灯の頭上には、今も穏やかな薄日が差している。
だがその光の奥に、彼女が抱え続けてきた、静かで確かな覚悟が透けて見えるようだった。
庭の隅、環が育てている小さな菜園から、湿った土と青草の匂いが、風に乗って漂ってきた。
夕方近く、環が買い物から戻ってくる足音が、通りの向こうから聞こえてきた。買い物籠を提げた環の姿が、石畳の道の先に見え始めている。
灯は立ち上がり、じょうろを片付けながら、晴の方を振り返った。
「晴は、どうなんですか」
「――何が」
「感情、本当にないんですか。それとも、消しちゃったんですか。それとも――」
灯は少し言葉を切り、それから、いたずらっぽく微笑んだ。
夕暮れ前の柔らかな光が、その微笑みの輪郭を、いっそう際立たせていた。
「隠してるだけ、なんじゃないですか」
その問いは、これまで灯にかけられたどの言葉よりも、鋭く晴の胸を突いた。彼は、すぐには答えられなかった。
ただ、胸の奥にある、名前のわからない感情が、今この瞬間、確かに疼いているのを感じていた。
柵に置いた手のひらの下で、木目のざらつきだけが、やけに鮮明に感じられた。
「――わかりません」
晴が正直にそう答えると、灯は満足そうに頷いた。
「わからない、でいいと思う。私も、まだ晴のこと、よくわかってないから」
環の姿が、通りの角に見えてきた。
灯は小さく手を振り、それから、晴に向かって短く言った。
「また、来てくださいね。非番の日でも」
その言葉を残し、灯は家の中へと入っていった。
晴は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
夕暮れの光が、彼自身の頭上
――相変わらず何もない、晴れ渡ったままの空を、静かに照らしていた。
柵に寄りかかったまま、晴は自分の胸に手を当て、そこにあるはずの何かを、確かめるように、しばらくじっとしていた。




