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空が壊れるほどの恋だった  作者: Kakou
【第一部】第二章
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第八話 「隠さない理由」

環の家を辞去した後も、晴の中には、いくつもの言葉がおりのように残っていた。


玲の警告、環の問い、そして戸棚の奥に隠された古い記録の断片。

それらすべてが、彼の胸の中で、答えの出ない重さとして積み重なっていく。

専属監視という職務は、本来、対象の感情の起伏を数値として記録し、閾値を超えれば粛々と調律を施すだけの、単純な仕事のはずだった。

それなのに今、晴はその単純さから、少しずつ遠ざかっていくのを感じていた。


その週末、晴は非番だった。

支局の勤務表には、彼の名前の欄に「休」の一文字が記されていたが、灯の観測は、非番の日にも義務として課せられている。

規定上、専属監視対象の異常反応はいつ発生するかわからないため、担当者は完全な休みを取ることができない。

それでも、制服を脱いで私服に着替えることだけは、晴にとって数少ない、非番の日らしい儀式だった。


彼は私服のまま、七番区の外れ、灯の家の近くの小道に立っていた。

灰色を基調にした普段の調律省の詰襟とは違う、飾り気のないシャツと薄手の上着。

制服を着ていない自分の姿が、これまでとは違う立場でここにいることを、彼自身に思い出させた。

何のために来たのか、職務としてなのか、それとも別の理由なのか

――その境界線は、ここ最近、彼の中でますます曖昧になっていた。


小道の脇には、七番区特有の低い石垣が続き、その隙間から野草が顔を覗かせている。午前中の柔らかい光が、石垣の表面を白っぽく照らしていた。晴は、その光を浴びながら、しばらく所在なく立ち尽くしていた。


しばらくして、灯の家の庭先で、彼女が花壇に水をやっているのが見えた。

環が丹精込めて育てているという花々

――淡い紫色をした釣鐘状の花や、白い小花が房状に咲く種類など、七番区の家々の庭でよく見かける、この季節ならではの品種が並んでいる。


灯はじょうろを傾けながら、鼻歌のようなものを口ずさんでいた。

その頭上には、穏やかな薄日が差し、時折、風に流された雲の影が優しく通り過ぎていく。


「――今日は制服じゃないんですね」


晴に気づいた灯が、じょうろを置きながら声をかけてきた。

麦わら色の帽子を軽く持ち上げ、目を細めてこちらを見る仕草には、監視される側という緊張感がすっかり抜け落ちていた。


「非番なので」


「非番でも来るんだ」


「観測は、非番の日も継続する規定になっています」


「相変わらず、規定、規定って」


灯は苦笑しながら、花壇の縁に腰を下ろした。

土に触れて湿った指先を、ワンピースの裾でそっと拭う。

晴も、少し離れた場所にある木製の柵に寄りかかった。

柵は古びて所々塗装が剥げ、触れると木目のざらつきが手のひらに伝わってくる。

二人の間に、これまでよりも幾分か柔らかい沈黙が流れた。庭のどこかで、小さな虫の羽音が響いている。


「――少し、聞いてもいいですか」


晴が切り出すと、灯は小さく首を傾げた。帽子のつばの影が、彼女の目元に淡い陰影を落とす。


「珍しいですね。あなたから質問なんて」


「灯は、感情を隠そうとしないですよね。学園でも、家でも。嬉しければ嬉しいまま、悲しければ悲しいまま、それがそのまま空に出てしまう」


「それは、隠せないからで」


「いえ」


晴は、言葉を選びながら続けた。


「体質的に隠せない部分があるのは、わかっています。ですが、それだけではないように見えます。灯は、隠そうとする努力自体を、していないように見える。まるで、それが当然だというように」


灯は、少しの間、黙って晴の顔を見つめていた。

花壇の縁に座ったまま、指先で土の感触を確かめるように、じっと動かしている。

乾いた土の粒が、指の間からぱらぱらとこぼれ落ちる音だけが、しばらくの間、庭に響いていた。


「なぜ、そんなに感情を隠さないんですか」


晴の問いは、責めるようなものではなかった。

ただ、純粋な疑問

――彼自身が、感情をほとんど表に出せずに生きてきたからこそ抱く、根源的な問いだった。


灯は、しばらく黙っていた。

庭の花々の間を、小さな蝶がひらひらと飛んでいく。

淡い黄色の羽を持つその蝶は、釣鐘状の花の周りを二度、三度と旋回し、やがて石垣の向こうへと消えていった。

その羽ばたきを目で追いながら、彼女はゆっくりと口を開いた。


「小さい頃、環おばさんに言われたことがあるんです」


「――何と」


「"感情を隠すことを覚えたら、あなたはあなたじゃなくなる"って」


灯は、遠くを見るような目をした。

視線の先には、七番区の煉瓦色の屋根が連なり、その向こうに、うっすらと中央塔の灰色の輪郭が見える。


「最初は、意味がわからなかった。周りの子は、みんな上手に感情を隠してた。悲しくても平気なふりをしたり、怒ってても笑顔でいたり。私だけが、それができなくて、いつも損してるって思ってた」


彼女は、花壇の土をひとすくい、指の間からさらさらとこぼした。

土には、環が肥料として混ぜ込んだ枯れ葉の欠片が交じっていて、それがぱらぱらと乾いた音を立てて落ちていく。


「でも、大きくなるにつれて、少しずつわかってきた。周りの子たちは、感情を隠すのが上手なんじゃなくて、感情を"消す"のが上手なんだって」


「消す」


「うん。隠すのと、消すのは、違う。隠すのは、ちゃんと感じた上で、表に出さないようにすること。でも消すのは、感じないふりをして、本当に感じなくなっていくこと。この国の大人たち、みんな、そうやって生きてる気がする」


灯の声は、静かだったが、確かな芯を持っていた。

風が一段と強く吹き、庭の花々が一斉に揺れる。

彼女の頭上の淡い光も、その風に合わせて微かに揺らめいた。


「調律を受け続けた人たちって、だんだん、何を見ても心が動かなくなっていくって聞きます。天気は穏やかになるけど、その代わり、何かが少しずつ、擦り減っていく」


晴は、その言葉に、自分自身の内側を覗き込むような感覚を覚えた。

感情がないと言われ続けてきた自分。

それは、生まれつきそうだったのか、それとも、いつの間にか"消えて"しまったものなのか

――その境界が、これまで一度も明確になったことはなかった。

柵に置いた自分の手のひらを、彼は無意識のうちに、強く握りしめていた。


「私は、それが怖い。だから、隠さない。隠したら、いつか消えていく気がして。隠したら――私が、私じゃなくなる」


その言葉は、晴の中に深く刻まれた。

灯の頭上には、今も穏やかな薄日が差している。

だがその光の奥に、彼女が抱え続けてきた、静かで確かな覚悟が透けて見えるようだった。

庭の隅、環が育てている小さな菜園から、湿った土と青草の匂いが、風に乗って漂ってきた。



夕方近く、環が買い物から戻ってくる足音が、通りの向こうから聞こえてきた。買い物籠を提げた環の姿が、石畳の道の先に見え始めている。

灯は立ち上がり、じょうろを片付けながら、晴の方を振り返った。


「晴は、どうなんですか」


「――何が」


「感情、本当にないんですか。それとも、消しちゃったんですか。それとも――」


灯は少し言葉を切り、それから、いたずらっぽく微笑んだ。

夕暮れ前の柔らかな光が、その微笑みの輪郭を、いっそう際立たせていた。


「隠してるだけ、なんじゃないですか」


その問いは、これまで灯にかけられたどの言葉よりも、鋭く晴の胸を突いた。彼は、すぐには答えられなかった。

ただ、胸の奥にある、名前のわからない感情が、今この瞬間、確かに疼いているのを感じていた。

柵に置いた手のひらの下で、木目のざらつきだけが、やけに鮮明に感じられた。


「――わかりません」


晴が正直にそう答えると、灯は満足そうに頷いた。


「わからない、でいいと思う。私も、まだ晴のこと、よくわかってないから」


環の姿が、通りの角に見えてきた。

灯は小さく手を振り、それから、晴に向かって短く言った。


「また、来てくださいね。非番の日でも」


その言葉を残し、灯は家の中へと入っていった。

晴は、しばらくその場に立ち尽くしていた。

夕暮れの光が、彼自身の頭上


――相変わらず何もない、晴れ渡ったままの空を、静かに照らしていた。

柵に寄りかかったまま、晴は自分の胸に手を当て、そこにあるはずの何かを、確かめるように、しばらくじっとしていた。

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