第七話 「隠された記録」
その日、晴が灯の家を訪れたのは、彼女自身の申し出によるものだった。
「今日、夕方から家にいるから。よかったら、寄っていって」
前日の別れ際、灯はそう言った。
専属監視の建前を借りた、けれど明らかに個人的な誘いだった。
晴はその言葉に従い、夕刻、七番区の外れにある煉瓦造りの家の前に立っていた。
呼び鈴を鳴らすと、応対に出たのは灯ではなく、初老の女性だった。
灰色の交じった栗色の髪を緩く編み込み、優しげな琥珀色の瞳をしている。
エプロン姿の彼女は、晴を見た瞬間、僅かに表情を硬くした。
「あなたが、灯の担当の……」
「天宮晴と申します。専属監視を担当しております」
晴が名乗ると、女性――雨宮環は、探るような視線を彼に向けた。
柔らかな微笑みの奥に、明らかな警戒の色が滲んでいる。
それは、これまで晴が接してきたどの大人とも違う、独特の緊張感だった。
「灯の育ての親の、環です。……どうぞ、中へ」
躊躇いを見せながらも、環は晴を家の中へ招き入れた。
玄関をくぐると、古い木材と、乾燥させた香草の匂いが漂ってきた。
廊下には、手編みの敷物が敷かれ、壁には灯の幼い頃の写真が幾つか飾られている。
晴は、その一枚一枚に、思わず目を留めた。
三歳ほどの灯が、環に抱かれて笑っている写真。
小学校の入学式らしき、少し緊張した面持ちの灯。
どの写真にも、共通して、灯の頭上には小さな雲や靄が写り込んでいた。
ほんの数分、シャッターが切られた一瞬だけ現れては消える程度の、ごく小さな反応
――国家の観測網が個人の異常として拾い上げる基準には、遠く及ばないものばかりだった。
それでも、写真という一瞬を切り取る性質上、その存在だけは、消しようもなく記録に残っていた。
それは編集で消されることも隠されることもなく、ありのままに飾られていた。
「あの子、小さい頃から、写真を撮るたびに何かしら天気が動いてしまって」
晴の視線に気づいた環が、静かに言った。
「最初は、隠そうとしたんです。でも、隠せば隠すほど、あの子が自分を恥じるようになる気がして。だから、あるがままを飾ることにしました」
「これまで、支局への報告が一度も上がっていないようですが」
「……ええ。あの子が崩れそうになるたび、私がそばにいて、なるべく早く落ち着かせるようにしてきました。大事になる前に、いつも」
環はそう言って、湯呑みに視線を落とした。
それ以上は語らない、という意志が、その横顔に滲んでいた。
その言葉には、長年灯を育ててきた者だけが持つ、静かな覚悟が滲んでいた。
晴は、その覚悟の重みに、何と返してよいかわからなかった。
居間に通されると、灯はまだ帰っていないようだった。
環は晴に椅子を勧め、お茶の準備を始めた。台所と居間を隔てる引き戸は開け放たれ、湯の沸く音と、環の背中越しの気配が、晴のいる場所にまで伝わってくる。
「あなた、灯のこと、どう思ってます?」
不意に、環が振り返らずに尋ねた。
晴は、その質問の直接さに、一瞬言葉を詰まらせた。
「観測対象として、正確に理解しようと努めています」
「そういう建前は、いいんです」
環は湯呑みを二つ、盆に載せて居間に戻ってきた。
晴の向かいに腰を下ろし、まっすぐに彼を見つめる。
「私は、あの子の親代わりとして、生まれてすぐのあの子を引き取ってから、十八年近くこの家で暮らしてきました。あの子がどれだけ辛い思いをしてきたか、誰よりも近くで見てきたつもりです。だから、あの子に近づく人間には、敏感にならざるを得ないんです」
「――ご心配は、当然のことと思います」
「あなたは、想像していた調律省の人間とは、少し違うようですね」
環は、湯呑みに視線を落としながら言った。
「この三週間、あの子の様子が、明らかに変わりました。前より、よく笑うようになった。家に帰ってきてから、あなたの話を、まるで友達の話をするみたいにする」
その言葉に、晴の胸の奥が、僅かに疼いた。
灯が自分のことを、環にどんな風に語っているのか、想像すると、落ち着かない気持ちになった。
「それが、良いことなのか悪いことなのか、正直、私にはまだわかりません」
環の声は、静かだった。
だが、その奥に、母親としての深い葛藤が滲んでいた。
「あなたは調律省の人間です。いつか、上からの命令であの子を"処分"しなければならなくなる日が来るかもしれない。その時、あなたはどうするおつもりですか」
その問いは、晴の中に鋭く突き刺さった。
玲から向けられた警告と、同じ種類の重さを持った言葉だった。
だが環の場合、それは職務上の忠告ではなく、灯という一人の人間の、これから先の人生そのものを案じる、切実な問いだった。
「――まだ、答えを持っていません」
晴は、正直にそう答えるしかなかった。
環はその返答を、責めるでも、失望するでもなく、ただ静かに受け止めた。
「正直な人ですね」
「よく言われます」
「灯も、そう言っていました」
環は、初めて小さく笑った。
その笑みには、警戒だけではない、ほんの僅かな安堵の色が滲んでいた。
その時、玄関の方から物音がした。
灯が帰ってきたらしい。
環は席を立ち、台所へと戻っていった。
晴は一人、居間に残された。
何気なく視線を巡らせた時、晴は、部屋の隅にある古い木製の戸棚に目を留めた。
他の家具とは明らかに趣の異なる、年代物の細工が施された戸棚だった。
扉の隙間から、古びた紙の束のようなものが、僅かに覗いている。
晴は、それに近づこうとして――思いとどまった。
職務上の好奇心と、招かれた客としての礼節が、彼の中でせめぎ合った。
だが、視線だけは、その戸棚から離れなかった。
紙の端に、かすれた文字で何か記されているのが、辛うじて見て取れた。
「氷雨」という文字と、それに続く、判読できない数行。
晴の記憶の中で、その文字は、支局の資料庫で見た古い記録の書式と、奇妙に重なった。
「――何か、気になりますか」
背後から、静かな声がした。
振り返ると、いつの間にか環が戸口に立っていた。
晴の視線の先を、正確に見抜いているようだった。
「……いえ」
「その戸棚は、大切な物をしまっているだけです。あの子にも、まだ見せていない」
環の声には、これまでにない硬さがあった。
柔らかな微笑みの下に、何か絶対に譲れない一線があることを、晴は肌で感じ取った。
「灯のこと、大切に思ってくださるなら――いずれ、あなたにも話す時が来るかもしれません。でも、今は、まだ」
その言葉を最後に、環は話題を変えるように、居間の窓を指さした。
「雨、降ってきましたね」
晴が窓の外に目をやると、いつの間にか、細かい雨が降り始めていた。
灯の帰宅と共に始まった、ごく個人的な小雨だった。
居間の戸が開き、灯が顔を覗かせた。
晴の姿を見つけると、少し驚いたような、けれど嬉しそうな表情を浮かべる。
「あ、本当に来てくれたんだ」
その明るい声が、晴の胸に残っていた重い問いを、一瞬だけ和らげた。
だが、部屋の隅の古い戸棚と、環が最後に見せた表情は、晴の記憶に、静かに、けれど確かに刻み込まれていた。




