第六話 「同期」
第三支局の資料庫は、地上階の奥まった一角にある。
窓のない部屋で、四方の壁一面に古い観測記録のファイルが並んでいる。
普段は誰も好んで立ち寄らない、埃っぽい静かな場所だった。
晴は、その日の午後、灯に関する過去の記録を探しに、そこへ足を運んでいた。
専属監視が始まって三週間あまり。
彼女の反応パターンをより正確に把握するため、幼少期からの断続的な観測記録を洗い直しておきたかった。
表向きはそういう理由だった。
だが本当のところ、晴自身、自分がなぜここまで彼女のことを深く知ろうとしているのか、うまく説明がつかずにいた。
資料棚の間を縫うように歩いていると、背後から声がかかった。
「珍しいところにいるな」
振り返ると、白鷺玲が戸口に立っていた。
制服の襟元まできっちりと整え、長い髪を隙なく結い上げた姿は、資料庫の埃っぽさとは対照的な清潔さを保っている。
玲は晴と同期の調律士で、階級は一つ上――第三支局の中でも、特に優秀な人材として名高い存在だった。
「氷雨灯の身元記録を確認していた」
「専属監視、順調か」
「数値上は」
晴が答えると、玲は資料棚の一角、晴が広げていたファイルにちらりと視線を落とした。
表紙には「大嵐遺児・里親委託記録」の文字と、「氷雨灯」の名。
天候の異常観測とは別枠で管理される、福祉部門の古い書類だった。
大嵐で身寄りを失った乳児が、雨宮環という個人に引き取られた際の委託手続き一式が綴じられている。
長らく開かれた形跡もなく、表紙には薄く埃が積もっていた。
「数値以外のことも、随分熱心に調べてるみたいだけど」
玲の声には、責めるような響きはなかった。
ただ、事実を確認するような、静かな口調だった。
それが晴には、かえって落ち着かなかった。
「対象の背景を理解することは、正確な観測のために必要なことだ」
「へえ」
玲は資料庫の奥、備え付けの椅子に腰を下ろした。
腕を組み、晴を見上げるように見つめる。
「じゃあ聞くけど、その"正確な観測"に、休日の買い出しの同行は必要?」
晴は、一瞬言葉を失った。
土曜日の市場での出来事を、玲がどこで知ったのか、彼にはすぐに見当がつかなかった。
だが、この支局において、専属監視官の行動記録は、支局全体で共有される仕組みになっている。
誰かがそれを目にしても、不思議ではなかった。
「観測対象の生活圏を把握する目的で」
「天宮」
玲は、晴の言葉を遮った。
彼女の声には、これまでにない硬さが滲んでいた。
「お前、あの子に肩入れしすぎだ」
資料庫の重い沈黙の中、玲の言葉が響いた。
晴は、すぐには何も返せなかった。
「肩入れ、というのが、具体的に何を指しているのか」
「自分でわかってるだろう」
玲は資料棚に寄りかかった。
窓のない部屋の中、頭上の照明の下で、彼女の頭上にごく薄い灰色の影が浮かんでいるのが見えた。
それは、支局内という閉ざされた空間だからこそ辛うじて視認できる、僅かな感情の揺れだった。
「お前は昔から、そうだ。感情がないみたいな顔して、実際には誰よりも一つのことに入れ込む。同期研修の時もそうだった。担当した案件、いつも必要以上に深追いする」
「それは、職務に忠実なだけだ」
「違う」
玲は、はっきりと言い切った。
「職務に忠実なやつは、自分の休日を使って対象の買い出しに付き合ったりしない。お前がやってるのは、職務じゃない」
晴は、反論の言葉を探した。
だが、見つからなかった。
玲の指摘は、彼自身がずっと目を逸らしてきた事実を、真正面から突きつけるものだった。
「彼女は、特異点予備群だ。国家にとって、潜在的な危険因子として登録されてる存在だぞ。お前がどれだけ個人的な感情を持とうと、いずれ上が判断を下す。その時、お前は自分の立場を守れるのか」
「――上が、判断を下すというのは」
晴が問い返すと、玲は一瞬、言葉に詰まったように見えた。
何かを言いかけて、それを飲み込む。
資料庫の中央塔管轄に近い部署にいる玲は、支局の末端にいる晴よりも、上層部の動きに近い位置にいる。
その玲が見せた躊躇いに、晴は微かな違和感を覚えた。
「……まだ、決定事項じゃない。だから、今は言えない」
玲はそう言って、話を切り上げるように資料棚から身を離した。
「とにかく。お前がどう思ってようと、あの子は"観測対象"だ。それ以上でも以下でもない。それを忘れると、お前も、あの子も、痛い目を見る」
最後の一言には、これまでとは違う響きが混じっていた。
忠告というより、どこか懇願に近い、切実な色合い。晴はその変化に気づいたが、それが何を意味するのか、この時はまだ、正確に読み取ることができなかった。
玲は資料庫を出ていこうとして、戸口で一度足を止めた。振り返らないまま、彼女は言った。
「同期研修の時、覚えてるか。お前が閾値超過で倒れた子供を、規定を無視して先に運んだこと」
「……覚えている」
「あの時、私は思ったんだ。こいつは、本当は誰よりも人のことを考えてるんだろうなって。感情がないんじゃなくて、出し方を知らないだけなんだろうなって」
玲の声は、資料庫の埃っぽい空気の中に、静かに溶けていった。
「だから、心配してる。お前が誰かを"考えすぎて"、自分ごと壊れるんじゃないかって」
それだけ言うと、玲は資料庫を出ていった。廊下に響く足音が、次第に遠ざかっていく。
晴は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
手元には、灯の保護記録が開かれたままになっている。
ページの隅、幼少期に福祉担当職員が記した経過報告の余白に、こう書き添えられていた。
――対象、極めて孤立傾向強し。要継続観察。
そのそっけない一文が、今日聞いた灯自身の言葉と重なり、晴の胸に重く沈んでいった。
玲の警告と、灯への想い
――その狭間で、晴は自分がどちらに向かって進むべきなのか、まだ答えを持てずにいた。
資料庫の外、窓から差し込む午後の光が、棚の隙間から細く伸びていた。晴はファイルを閉じ、静かに立ち上がった。




