第五話 「初めての晴れ間」
土曜日の七番区は、平日とは違う顔を見せる。
週末の朝は、街の中央通りに市が立つ。
石畳の両脇にずらりと屋台が並び、旧市街の住人たちが日用品や食材を買い求めて行き交う。
焼きたてのパンの匂い、干した香草の束、色とりどりの野菜が積まれた木箱
――普段は落ち着いた煉瓦色の街並みが、この日ばかりは活気のある喧騒に包まれる。
晴は、その日も変わらず七番区に足を運んでいた。
専属監視という職務に、休日の概念はない。
だが、市の立つ土曜日の観測は、平日の学園監視とはまるで違う趣があった。
人々の感情が忙しなく動く分、街全体に小さな雲や薄日が入り乱れる。
誰かが値切り交渉に成功して小さな晴れ間を作れば、隣ではぐれた子供を探す母親の頭上に灰色の雲がかかる。
市場は、この国の感情のるつぼのような場所だった。
その雑踏の中に、灯の姿があった。
買い物籠を提げ、露店の前で店主と何やら言葉を交わしている。
晴が近づくと、灯はちょうど、山盛りの林檎の中から数個を選び終えたところだった。
「あ、来たんですか」
驚いた様子もなく、灯は当然のように晴を迎えた。
以前のような刺々しさは、もうそこにはなかった。
「環おばさんの代わりに、買い出し。今日は多いから、荷物持ちがいると助かるかも」
それは、これまでの彼女なら決して口にしなかったであろう言葉だった。
監視の対象である晴に、自ら手伝いを頼む。
晴は少しの間、その意味を測りかねたが、やがて黙って彼女の隣に並んだ。
「――いいんですか、俺が」
「別に。荷物持ちに資格はいらないでしょ」
灯はそう言って、林檎の入った紙袋を晴に押し付けた。
ずしりとした重みが、腕に伝わる。
それはこの三週間、灯の観測記録を数値としてしか扱ってこなかった晴にとって、初めて感じる、彼女との"生活"の重さだった。
市場を巡る間、灯は驚くほど自然に晴へ話しかけた。
野菜売りの老婆と値切り交渉をしては「見た?今の駆け引き」と得意げに振り返り、焼き菓子の屋台の前では香ばしい匂いに引き寄せられて足を止め、「一つだけ味見していい?」と店主に交渉して断られ、唇を尖らせる。
晴はその一つ一つに、どう反応していいのかわからないまま、それでも彼女の隣を歩き続けた。
「晴さん、笑わないですね」
乾物屋の店先で、灯がふと言った。
「表情、変わらないから、面白いのか面白くないのかわからない」
「面白い、とは思っています」
「その言い方がもう面白い」
灯はくすくすと笑った。
彼女の頭上には、その笑い声に合わせて、淡い水色の光が滲んでいた。
晴はその変化を、もう当たり前のように読み取れるようになっていた。
喜びの色、警戒の色、悲しみの色
――三週間の観測を通じて、彼にとって灯の感情は、誰よりも読み解きやすいものになっていた。
市場の外れ、大きな噴水のある小広場に差し掛かったところで、灯は買い物籠をベンチに置き、大きく伸びをした。
「今日、疲れた。でも、楽しかったかも」
「意外です」
「何が」
「監視されている状態で、"楽しい"という感情が出ることが」
灯は、少し呆れたような顔をした。
それから、噴水の縁に腰掛け、水面に映る空を見つめた。
「最初はね、本当に嫌だった。ずっと見張られて、息もできないと思った。でも」
彼女は言葉を切り、晴の方を振り返った。
「晴さんといると、監視されてる気がしないの。ただ、隣にいる人、って感じ」
その言葉に、晴の中で何かが小さく音を立てた。名前のわからない感情が、また輪郭を持とうとしている。
彼は懐の端末に手を伸ばしかけて、しかし途中で止めた。今この瞬間を、数値として記録することが、なぜかひどく不誠実なことのように思えた。
「――ねえ、少し座って」
灯はベンチの隣を、軽く手のひらで叩いた。
晴は言われるままに腰を下ろした。
噴水の水音が、二人の間の沈黙を優しく埋めていく。
「私、初めてかもしれない」
灯がぽつりと呟いた。
「誰かの前で、こんなに気を抜いてるの。結衣は好きだけど、結衣にもどこかで、"心配かけたくない"って気を張ってる部分がある。環おばさんにも、そう。でも、晴の前だと、なんでだろう、そういうの、忘れちゃう」
彼女はそう言って、噴水の水しぶきに手を伸ばした。
指先が水面に触れ、小さな波紋が広がる。
それを見つめる横顔には、警戒も、怒りも、悲しみもなかった。
ただ、穏やかな、屈託のない表情。
その瞬間だった。
晴は、灯の頭上を見上げた。
いつもそこにあったはずの灰色の靄、あるいは淡い水色の光
――そのどちらでもない、澄み渡った青が、灯の頭上に広がっていた。
雲ひとつない、けれど七番区の誰の頭上にもない、彼女だけの晴れ間だった。柔らかな陽光が、その一角にだけ差し込み、灯の黒髪と、毛先の淡いブルーを、きらきらと輝かせていた。
晴は、言葉を失った。
これまで数え切れないほどの天候を観測してきた。
晴れ、曇り、雨、雷
――そのすべてを、彼は職務として記録し、報告書に落とし込んできた。
だが今、目の前に広がるこの晴れ間だけは、どうしても、その延長線上にあるものとは思えなかった。
「――どうしたんですか?」
晴の視線に気づいた灯が、不思議そうに首を傾げた。
晴はしばらく答えられなかった。
懐の端末が、微かな振動とともに、新しい記録の発生を告げている。
だが晴の手は、それを取り出すことができなかった。
「……何でもないです」
晴はようやくそれだけ答えた。
灯は少し首を傾げたが、それ以上は追及せず、また噴水の水面に視線を戻した。
晴は、その日の夜、支局に戻ってから、報告書の用紙を前に長い時間座っていた。
ペン先を紙に置いても、言葉が出てこない。
灯の頭上に広がった、あの澄んだ青。
それは規定の閾値からすれば、間違いなく異常値として記録されるべき反応だった。
彼女の感情の昂ぶりが、あそこまで明確な晴れを作り出したのは、専属監視が始まって以来、初めてのことだった。
だが晴は、その報告書に、いつまでもその出来事を書き記すことができなかった。
数字にしてしまえば、あの瞬間が、ただの異常な観測値の一つに変わってしまう気がした。
窓の外を見上げると、夜空は変わらず、彼自身の頭上には何もなかった。
だが、その何もない空を見上げながら、晴は初めて、そこに何かが生まれかけているのを、はっきりと感じていた。




