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空が壊れるほどの恋だった  作者: Kakou
【第一部】第一章
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第四話 「晴れてる空が、一番怖い」

放課後の観測は、いつも同じ場所から始まった。


校門を出た灯が、結衣と別れて一人になる瞬間。

結衣は毎日、校門の前で大きく手を振り、「また明日ね」と声を張り上げてから、賑やかな下校中の生徒たちの流れに紛れていく。

その背中を見送った灯が一人になった時

――そこから晴の一日の後半戦が始まる。


この日、灯はいつもと違う方向に足を向けた。

七番区の中心部、自宅のある方角ではなく、街の端、首都圏の外縁部へと続く道だった。


「今日は、家に帰らないんですか」


少し離れた距離を保ちながら、晴が声をかけると、灯は振り返らずに答えた。


「たまに、寄り道するの。ついてくるなら勝手にどうぞ」


拒絶ではなかった。

突き放すような口調の奥に、以前にはなかった僅かな許容が滲んでいた。

晴は黙って、彼女の後を追った。


街の端まで歩くと、風景が変わっていく。

整然と並んでいた煉瓦造りの家々が徐々にまばらになり、石畳の道は次第に舗装の粗い土の道へと変わっていく。

街灯の間隔も広くなり、夕暮れ時にはあたり一帯が薄暗く沈んで見えた。

この先にあるのは、首都圏の外縁部

――十八年前の大嵐によって失われた北部の街の跡地に作られた、大嵐記念公園だった。


公園と呼ばれてはいるが、遊具の類は何もない。

かつて家々が立ち並んでいたはずの土地は、今では見渡す限りの更地になっており、その中央に、慰霊のための石碑がぽつんと立っている。

灰色の石を積み上げた質素な碑で、表面には無数の名前が刻まれていた。

碑の周囲を、低く刈り込まれた植え込みが囲み、その先には、かつての街路の名残なのか、ところどころに割れた敷石が雑草の間から顔を覗かせている。


そしてこの一帯には、常に薄い霧雨が降り続けていた。

誰か個人の感情によるものではない。

十八年前の悲劇に対する、この国全体の集合的な悲しみが、今もなお空から滲み出ているのだと言われていた。

空全体が、低く垂れ込めた灰色の雲に覆われ、そこから絶え間なく、霧のように細かい雨が落ちてくる。

他の区画の乾いた空気とは、明らかに質感の違う湿り気が、あたり一帯に漂っていた。


灯は石碑の前で足を止め、傘も差さずにその霧雨に濡れるまま、しばらく立ち尽くしていた。

制服のブラウスの肩がじわりと色を変えていくのを、晴は少し離れた場所から見ていた。


「ここ、落ち着くんです」


晴が追いつくと、灯はぽつりと言った。


「みんな、悲しい場所だから来たがらない。でも私は、逆」


「逆、というのは」


「ここにいると、私一人だけが雨を降らせてるんじゃないって思える。街中どこ歩いても、私の周りだけ天気が違う。でもここだけは、最初から曇ってる。私が特別変なんじゃなくて、ただ、悲しい場所にいるだけって思える」


灯は石碑にそっと手を触れた。

指先が、刻まれた文字の溝をなぞるように動く。

表面には、十八年前に失われた人々の名が、無数に刻まれている。

摩耗しかけた文字の中には、すでに読み取るのが難しいものもあった。


「――私、ここに来るたび思うんです。もし私が、この事件と何か関係あるんだとしたら」


その言葉に、晴は僅かに息を止めた。

灯自身、まだ確証を持って言っているわけではないようだった。

ただの直感、あるいは長年の孤独が生んだ漠然とした不安。

それでも、その言葉の重みは、晴の中に、うまく言葉にできない小さなざわめきを残した。


「なぜ、そう思うんですか」


「わからない。ただ、小さい頃から、ずっと言われてきたから」


 灯は石碑から手を離し、湿った土の上に視線を落とした。


彼女が語り始めた記憶は、断片的だった。


物心ついた頃、灯はすでに周囲から距離を置かれていた。

幼稚園の頃、庭で遊ぶ子供たちの輪に入ろうとするたび、彼女の頭上にだけ小さな雲がかかる。それを見た他の子供の母親たちが、さりげなく、けれど確実に、我が子をそっと引き離す。

「あの子は危ない」「近づかない方がいい」――幼い耳にも届く、大人たちのひそひそ話。

園庭の隅、誰も座らないベンチに一人腰掛けて、遠くで遊ぶ子供たちを眺めていたことを、灯は今でも鮮明に覚えているという。


「化け物、って言われたこともあります。子供って、正直だから」


灯は淡々と語った。

感情を交えずに話そうとしているのが、かえって痛々しく見えた。

話す間、彼女の頭上の雲は、不思議なほど動きを見せなかった。

まるで、この話だけは、何度も語るうちに感情の芯が擦り切れてしまったかのようだった。


「環おばさんは、いつも守ってくれた。学校に呼び出されて、先生や他の親御さんに頭を下げて。でも、守られれば守られるほど、私、自分がそんなに"守られなきゃいけない存在"なんだって突きつけられる気がして」


小学校に上がってからも、状況は大きく変わらなかった。

灯の話によれば、席替えのたびに、彼女の周りだけ微妙に空席ができる年があったという。

友達ができても、長くは続かない。

灯の感情の起伏に周囲がついていけず、遠足のバスの中で泣き出した彼女に、誰も駆け寄らなかった年もあった。

それを繰り返すうち、灯は自分から先に、誰かと深く関わることを避けるようになっていった。


「結衣は、初めてでした。私が何しても、天気がどうなっても、普通に隣にいてくれる人」


その名前を出す時だけ、灯の声に僅かな温かみが戻った。晴は黙って耳を傾けていた。

彼にとって、それは初めて聞く、灯という人間の輪郭だった。

数値でも、報告書の文字列でもない、生きた記憶の連なり。

彼女の声の抑揚、視線の動き、時折唇を噛むような小さな仕草

――そのすべてが、これまで彼が見てきたどんな観測データよりも、雄弁だった。


「――晴さんは、平気なんですか」


不意に、灯が尋ねた。

夕暮れ時の薄暗い光の中、彼女の瞳が晴をまっすぐに捉えていた。


「私の話、聞いてて。重いとか、面倒だとか、思わないんですか」


晴は、少し考えてから答えた。


「重い、と思う感覚が、俺にはあまりわからない」


「またそれ」


「でも」


晴は言葉を継いだ。

自分でも、なぜこの話をしようと思ったのか、はっきりとはわからなかった。

ただ、灯の語った孤独の輪郭が、自分の記憶のどこかと、静かに重なっていくのを感じていた。


「俺も、似たようなことを言われたことがある」


灯が顔を上げた。


「感情がない人間、空っぽな人間、って。子供の頃から、ずっと」


晴の脳裏に、断片的な記憶が浮かんだ。

養護施設の広い食堂、長い木の机が並ぶ光景。

周りの子供たちが、些細なことで泣いたり笑ったりする中、晴だけがいつも凪いだ表情のままでいた。

食事の時間、隣に座った子供が「ねえ、なんで晴くんはいつも同じ顔なの」と無邪気に尋ねてきたことを、彼は今でも覚えている。

それを気味悪がられたこともあれば、都合よく扱われたこともあった。感情がないなら、傷つかないだろうと。


「俺の場合は、逆かもしれない。灯は感情が出すぎて距離を置かれた。俺は、感情が見えなさすぎて距離を置かれた」


「……同じ、じゃないですか」


灯は小さく呟いた。


「出すぎても、出なさすぎても、結局、"普通じゃない"ってだけで、遠ざけられる。私たち、真逆なのに、似たもの同士なんですね」


その言葉に、晴は何も返さなかった。

だが、胸の奥にあった名前のわからない感情が、その瞬間、輪郭を持ち始めた気がした。


霧雨は、いつの間にか小降りになっていた。

灯は石碑に背を向け、公園の外れ、街並みを見渡せる小高い場所まで歩いていった。

かつて物見台のような建造物があった跡地なのか、周囲より一段高くなった土の丘だった。

晴もそれに続いた。


そこから見える首都の空は、二つに分かれていた。

今立っている大嵐記念公園と、その先に続く七番区の方角だけが薄い雲に覆われ、それ以外の区画

――中央塔の聳える市街地の方角は、抜けるような快晴だった。

オレンジ色に染まり始めた夕陽が、その快晴の空をいっそう鮮やかに照らしている。


「――あの空、見てください」


灯は、遠くに広がる雲ひとつない青を指さした。


「綺麗ですよね。誰の感情も乱れてない、完璧な晴れ」


「そうですね」


「でも私、あれが一番怖い」


晴は、灯の横顔を見た。夕陽を受けたその顔には、これまで見せたことのない、深い翳りがあった。


「みんな、あの空を見て安心するんです。ああ、今日はどこも平和なんだって。でも私は、あの空を見るたびに思う。あれは本当に、誰も何も感じてないってことなのかなって。それとも――誰かが、感じないふりをして、我慢して、抑え込んでるだけなんじゃないかって」


彼女の声は、静かだった。

だが、その静けさの奥に、これまで積み重ねてきた孤独と、それでも消えない優しさが同居していた。


「晴れてる空が、一番怖い」


その言葉は、晴の中に深く沈んでいった。快晴。感情の動かない証拠。

それは彼自身の頭上に、いつも広がっていた空だった。


彼はふと、自分の胸の内に問いかけずにはいられなかった。

もし自分の"何もない空"が、本当は何かを抑え込んでいるだけだとしたら

――その正体は、いったい何なのだろうか。


丘の上に立つ二人の影が、夕陽に長く伸びていた。

灯の頭上には、まだ薄い雲が名残のように漂っている。

晴の頭上には、相変わらず何もない。だがその日、晴は初めて、自分の"何もない空"を見上げるのが、少しだけ落ち着かなかった。


夕暮れの光の中、灯はそれ以上何も言わず、公園を後にした。

晴は、彼女の後ろ姿と、その頭上にまだ僅かに残る薄い雲を、しばらく見つめ続けていた。



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