第三話 「隠せない人」
七番区の朝は、いつも霧がかっている。
旧市街特有の煉瓦造りの家々が並ぶこの一帯は、朝夕の寒暖差で薄い霧が発生しやすい。
地元の人々はそれを「天候由来の自然霧」と呼び分けている。
感情由来の異常気象と見分けるための、生活の知恵だった。実際、朝の七番区に立つと、白く烟る街並みの中に、時折ふっと違う質感の靄が混じっていることに気づく。
それは誰かの寝起きの不機嫌さだったり、朝食の席での小さな苛立ちだったりする。
晴は、その日から毎朝、七番区の外れに立つようになった。
灯の家から、通学路である石畳の坂道を見下ろせる位置。専属監視の任務として、彼女の一日の始まりから終わりまでを見届けることが、彼の新しい日課になっていた。
専属監視対象への格上げと同時に、灯の左手首には、簡易型の感情計測デバイスが取り付けられていた。
支局の技官が自宅を訪れ、装着したものだった。薄い金属の腕輪型で、常時、微細な生体反応を計測し、支局のシステムに送り続けている。
灯はそれを、制服の袖で隠すこともなく、けれど見せびらかすでもなく、ただ黙って身につけていた。
装着からまだ数日しか経っていないその腕輪は、学園の生徒たちにとって、彼女を語る新しい話題の種になっていた。
灯の通う学園は、七番区と八番区の境にある古い建物だった。
石造りの校舎に、蔦の絡んだ塀。
窓は縦長で、明かり取りのために大きく設計されている。
この国の学校建築は総じて、生徒たちの感情の動きを教師が視認しやすいよう、開放的な造りを基本としていた。
廊下の窓越しに教室の中が見渡せる設計も、単なる採光ではなく、常時観察を前提とした国家的な意図の表れだった。
晴は、正門から少し離れた並木の陰に立ち、灯の登校を待った。
生成り色のブラウスに、濃紺のプリーツスカート。この学園の制服だった。
長い黒髪を緩く一つに結び、毛先の淡いブルーだけが陽光を弾いて目立つ。彼女はいつも、俯き加減で坂道を上ってくる。
「――おはよう、灯」
同じ坂を上ってくる少女が、灯に駆け寄って声をかけた。
灯の頭上の空は、その瞬間、ふっと淡い水色に色づいた。
友人と話す、ただそれだけの些細な喜び。
晴はその変化を、遠目からでもはっきりと見て取ることができた。
彼女の隣を歩く友人
――名を志田結衣といった。
晴は事前に配布された生活記録でその名を知っていた
――が何気ない冗談を言うと、灯の周りの色がさらに明るくなる。
だが、次の瞬間、別のクラスメイトが灯の腕輪に視線を落とし、何かを囁き合う。
灯の表情が、目に見えて曇った。
空の色も、それに合わせて灰色に沈む。
晴は、その一連の変化を、まるで潮の満ち引きを見るように観察していた。
喜び、警戒、羞恥、そしてまた小さな喜び
――灯の感情は、他の生徒たちよりも明らかに振れ幅が大きく、そして何より、隠す努力の跡がまったく見えなかった。
多くの生徒は、感情が動いても、それを表に出すまいと僅かに間を置く。
灯にはその"間"がなかった。感じたことが、そのまま空に映し出される。
午前の授業時間、晴は校舎裏の観測用ベンチに腰を下ろし、端末の記録画面を見つめていた。
数値は絶えず揺れ動いている。
だが、彼が見ているのは数値だけではなかった。
休み時間ごとに窓から漏れ聞こえる灯の笑い声、廊下を歩く彼女の足取りの軽さ、時折見せる伏し目がちな表情
――そのひとつひとつが、報告書の数字には収まりきらない情報として、晴の中に積み重なっていった。
昼休み、灯は校舎の裏手にある小さな中庭で、一人、弁当を広げていた。
友人たちと一緒にいることが多い彼女にしては珍しい光景だった。
晴は少し離れた木陰から、その様子を見守っていた。
中庭には、古い井戸の跡と、その周りを囲む石のベンチがある。
かつて実際に使われていた井戸らしいが、今では使われることもなく、苔むしたまま放置されている。灯はその井戸の縁に腰掛け、膝の上に弁当箱を乗せていた。
しばらくして、灯がふと顔を上げ、晴の方を見た。
隠れていたつもりだったが、見つかっていたらしい。
「……そこにいるの、知ってます」
晴は木陰から進み出た。
灯は小さくため息をつき、弁当箱の蓋を閉じた。
「毎日、ずっと見てるつもりですか」
「職務です」
「職務、職務って。あなた、それしか言わないの?」
灯は呆れたような、それでいてどこか諦めたような表情を浮かべた。
彼女の頭上には、今は薄い霧のような雲がかかっている。
怒りでも喜びでもない、灰色と白の中間のような、曖昧な感情の色。
「今日、友達と話してる時、少し嬉しそうでしたね」
晴が言うと、灯は驚いたように目を見開いた。
「……見てたんですか、そんなところまで」
「観測が任務なので」
「だから、それ」
灯は苦笑した。
それから、井戸の縁を軽く手で叩き、隣に座るよう促すような仕草を見せた。
晴が戸惑いながらも近づくと、彼女は少し身をずらして場所を空けた。
「腕輪に視線を落とされた時、曇ってましたよね。あれは」
「――やめてください」
灯の声が、僅かに硬くなった。
「私の感情、いちいち言葉にしないで。自分でもわかってることを、他人に言われるの、しんどいから」
晴は言葉を止めた。
彼女の言う通りだった。
観測することと、それを言葉にして突きつけることは、本来別のことのはずだった。
自分の職務が、いつの間にか彼女を追い詰める道具になっていたことに、晴は今更ながら気づいた。
「すみません」
珍しく、それは職務的な謝罪ではなかった。
灯はその声の響きに、何かを感じ取ったように、ちらりと晴の横顔を見た。
「……本当に、変な人」
「そうですか」
「怒られても、責められても、あなた、顔色ひとつ変えない。それなのに今、ちょっとだけ、困った顔した」
灯はそう言って、井戸の縁に置かれた自分の手の甲を見つめた。
「私、感情を隠せない体質でしょう。だから、周りの人はみんな、私を見ると身構えるの。何かの拍子に嵐でも起こすんじゃないかって。学校の先生も、クラスの子たちも、みんな薄っすらそう思ってる。優しくしてくれる子だって、心のどこかで私を"腫れ物"扱いしてる」
彼女の声は、静かだった。
だが、その静けさの奥に、長年積み重ねてきた孤独の重みが滲んでいた。
「でも、あなたは違う」
「……」
「怖がってない。観察はしてるけど、それは怖がってるからじゃない。ただ、見てる。まっすぐに」
灯はそこで初めて、晴の方に顔を向けた。
木漏れ日が、彼女の黒髪と、その先に混じる淡いブルーを照らしていた。
「あなた、私を怖がらないの?」
その問いは、これまでの誰の言葉よりも、まっすぐに晴の胸に届いた。
晴は少しの間、答えに詰まった。怖いという感情そのものが、彼の中には元々希薄だった。
だが、それだけが理由ではない気がした。
「――怖い、というより」
晴は、自分の内側を探るように、ゆっくりと言葉を選んだ。
「見ていて、飽きない」
言ってしまってから、晴は自分の言葉に僅かな戸惑いを覚えた。
職務上の観測記録として、そんな表現は存在しない。
だが、それが今、彼の中にある一番正直な感覚だった。
灯は、目を丸くした。
それから、堪えきれないというように、小さく吹き出した。
「――何、それ」
彼女の笑い声とともに、頭上の灰色の靄が、すっと薄れていく。
ひとしきり笑った後、灯はふと思い出したように、晴の顔を覗き込んだ。
「そういえば、天宮さんって呼んでたけど、下の名前は?」
「晴です」
「晴。……ふうん」
灯はその響きを確かめるように、小さく口の中で繰り返した。
「わかりやすい名前。あなたにお似合い」
「よく言われます」
「じゃあ、晴さんでいいや。天宮さん、って呼ぶの、なんか他人行儀だし」
彼女はそう言って、あっさりと呼び方を決めてしまった。
晴は特に反対する理由もなく、小さく頷いた。それだけの、些細なやり取りだった。
だが、名前を呼ばれるということが、これほど据わりの悪い、それでいて悪くない感覚を伴うものだとは、晴は知らなかった。
代わりに、木漏れ日のような、淡い金色の光が差し込んだような色に変わった。
晴はその変化を、端末を見ることなく、はっきりと感じ取ることができた。
昼休みの終わりを告げる鐘が、遠くの校舎から鳴り響いた。灯は弁当箱を鞄にしまいながら立ち上がった。
「観測、続けるんでしょう」
「はい」
「……まあ、いいや。今日のところは」
彼女はそう言って、少しだけ晴の方を振り返った。その表情には、もう最初の日のような拒絶の色はなかった。
中庭を去っていく灯の背中を見送りながら、晴は自分の懐の端末に目を落とした。
数値は、まだ完全には落ち着いていない。
だが、そこに記録された揺れ動く波形が、これまでのどの観測記録よりも、鮮やかに見えた。
晴はその変化を、端末を見ることなく、はっきりと感じ取ることができた。




