表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空が壊れるほどの恋だった  作者: Kakou
【第一部】第一章
PR
2/94

第二話 「監視対象」

報告書は、白紙のまま三日、晴の机の引き出しに眠っていた。


第三支局の執務室は、いつも紙とインクの匂いがした。

窓の外には灰色の空が広がり、室内には四十を超える机が整然と並んでいる。

職員たちは黙々と各区画の気象マップと向き合い、時折、誰かの端末が小さな警告音を鳴らす。


それだけがこの部屋の、唯一の生きた音だった。


感情を隠すことにすら意味がない場所、とよく言われる。

壁に据えられた大型モニターには、支局管内四十区画の空模様がリアルタイムで映し出され、職員自身の机の上にすら、簡易的な感情計測器が置かれている。

誰かが小さくため息をつけば、その机の周りにだけ薄い靄がかかる。

調律士自身もまた、常に測られる側の人間だった。


晴は、七番区の異常値について、いまだに正式な報告を上げていなかった。

閾値超過。氷雨灯、十八歳。

局地的な小雨、継続時間、二時間以上。

書くべき数字はすべて揃っている。

それでも、ペン先はいつも同じ場所で止まった。


この三日間、彼は毎朝同じことを繰り返していた。

報告書の用紙を取り出し、彼女の名前を書き、そこから先が進まない。

周りの同僚たちが次々と処理を終えていく中、晴の机の上だけ、時間が止まったように白紙が積み上がっていった。


「天宮」


声をかけられ、晴は顔を上げた。支局長の椎名だった。

四十代半ば、白髪の交じった短髪。

手には、晴が提出したはずのない資料

――七番区の観測ログが握られている。

おそらく、システムに自動で蓄積されていた生データを、そのまま引き出してきたのだろう。


「お前が現場に出た日から、七番区の異常値、毎日出てるな」


「……はい」


「施術記録がない。経過観察で止めてるのはお前の判断か」


椎名の声に責める色はなかった。

ただ、事実確認の淡々とした響き。

それがかえって、晴には重く感じられた。

感情を露わにされるより、事実だけを淡々と突きつけられる方が、時に人を追い詰める。


「規定の運用上、単発の反応であれば経過観察が認められています」


「単発じゃないだろう。三日連続だ。しかも数値は落ちるどころか、日を追うごとに上がっている」


椎名は資料を机の上に広げた。

折れ線グラフが右肩上がりに伸びている。

晴はその線を、しばらく無言で見つめた。


「上から指示が出た。氷雨灯、専属監視対象に格上げする。担当はお前だ」


晴は一瞬、意味を飲み込みかねた。


「専属、というのは」


「毎日、対象の傍にいろということだ。感情の起伏を継続的に観測する。閾値を超えたら、即座に調律。今までみたいな悠長な経過観察は許されない」


椎名は分厚いファイルを晴の机に置いた。

表紙には「特異点予備群・要継続監視」という赤い判が押されている。


晴はその文字を、しばらく黙って見つめていた。

周囲の同僚たちが、ちらちらとこちらを窺っているのがわかった。

専属監視という言葉の重さを、この場にいる誰もが知っている。


「彼女は、危険なんですか」


「まだわからん。だが、単独の人間が半径三メートルの気象系を二時間以上維持し続けるなんて事例、記録上ほとんどない。過去にあったとすれば――」


椎名は言葉を切った。

何かを言いかけて、飲み込んだように見えた。

晴はその不自然な間に、微かな違和感を覚えたが、追及する間もなく話は次に進んでいた。


「とにかく、担当はお前だ。明日から、彼女の生活圏に密着しろ。学校、自宅、その他の行動範囲、すべて含めてだ」


「……了解しました」


答えながら、晴の胸の内側で、何かがひどく軋んだ。それが何の感情なのか、彼にはまだ名前がつけられなかった。



七番区に向かう足取りは、いつもより重かった。


支局から続く石畳の道を歩きながら、晴は懐のファイルを何度も開いては閉じた。密着監視。


言葉にすれば単純だが、実際にそれが意味することは、対象の日常を丸ごと国家の監視下に置くということだ。


学校への行き帰り、友人との会話、家での過ごし方

――そのすべてが、晴の観測記録として支局に蓄積されていく。


道すがら見上げた空は、今日も快晴だった。


だが七番区に近づくにつれ、遠くにひとつだけ、灰色の染みのような雲が浮かんでいるのが見えた。

まだ距離があるのに、それが誰の頭上にある雲かを、晴はなぜかすぐに理解していた。


灯の家は、七番区の外れ、煉瓦造りの家々が並ぶ一角にあった。

蔦の絡む古い外壁、小さな庭には手入れの行き届いた花壇がある。

おそらく育ての親である環が丹精込めて世話をしているのだろう。

呼び鈴を鳴らすと、しばらくして、灯自身がドアを開けた。

晴の姿を見た瞬間、彼女の表情が固まった。


「……あなた」


「調律士の天宮です。先日は」


灯の声には、警戒の色が滲んでいた。

晴は言葉を選びながら、来訪の目的を告げた。


「本日より、あなたの専属監視を担当することになりました。調律省の判断です」


空気が、変わった。


晴が言い終えるより早く、灯の頭上に灰色の雲が広がっていく。

二日前とは違う、明らかに強い反応だった。

晴は懐の端末を確認するまでもなく、それを肌で感じ取った。

空気の湿度が、一瞬にして変わったのがわかる。


「専属監視って、何」


「あなたの感情の起伏を、日常的に観測する役目です。閾値を超えた場合は、速やかに調律を」


「――ずっと見張るってこと?」


灯の声が、震えていた。

怒りとも、恐怖ともつかない響き。彼女の周りの雲が、さらに濃さを増していく。

ぽつり、ぽつりと、玄関先の石段に雨粒が落ち始めた。


「学校でも、家でも、友達といる時でも、ずっと、あなたが私を見てるってこと?」


「そういうことに、なります」


「ふざけないで」


彼女は一歩後ずさった。

ドアの取っ手を握る手が白くなっている。

奥の廊下から、環らしき人影が心配そうに顔を覗かせたが、すぐに引っ込んだ。

この家では、こうした場面が珍しくないのかもしれない、と晴は思った。


「私、動物園の動物じゃない」


その言葉が、晴の胸のどこかに刺さった。

だが、彼にはそれを否定する術がなかった。


事実、彼女は今、国家にとっての観測対象

――記録される数字の一部になろうとしている。


「私はただ、この街で普通に生きたいだけなのに。なんで、感情が人より少し強いだけで、こんな目に遭わなきゃいけないの」


「――規定です」


言った瞬間、晴は自分の言葉の空虚さに気づいた。

それしか言えない自分に、初めて苛立ちに似た何かを感じた。名前のわからない感情が、また胸の奥で疼いた。


灯は、晴の顔をまっすぐに睨みつけた。

雨に濡れたような瞳だった。


「この前は、"羨ましいのか怖いのかわからない"なんて言ったけど――今、わかった」


「……」


「あなたは、怖い人だ。感情がないんじゃなくて、感情を奪う側の人間なんだ」


その一言は、ただの拒絶の言葉以上に、鋭く晴の中に残った。

彼女の頭上の雨が、音を立てて強くなる。ぱらぱらと、玄関先の石段を濡らしていく。

傘も差さず、彼女はまっすぐに晴を睨み続けていた。


「帰って」


灯はそれだけ言うと、ドアを閉めた。

硬い音が、静かな路地に響いた。


晴はしばらく、閉ざされたドアの前に立ち尽くしていた。

懐の端末には、閾値を超えた反応が記録されている。

規定通りであれば、即座に踏み込んで調律を施すべき状況だった。

今この瞬間も、彼女の感情の昂ぶりは基準値を大きく上回り続けている。


だが、晴の手は、端末に伸びなかった。


彼はただ、ドアの向こうから聞こえる、小さく降り続ける雨音に耳を澄ませていた。

それは、彼女の感情そのものの音だった。


これまで数え切れないほどの異常気象を観測してきたはずなのに、この雨の音だけは、なぜかどうしても、"データ"として処理することができなかった。



支局への帰り道、空はすでに茜色に染まり始めていた。

晴は懐から端末を取り出し、未記入の報告書欄を見つめた。

今日という日の観測結果を、彼はどう書けばいいのか、まだわからずにいた。


――感情を奪う側の人間、か。


灯の言葉を、晴は何度も反芻していた。

否定できないことが、彼には何よりも堪えた。


これまで彼は、自分の仕事を疑ったことなど一度もなかった。

感情の乱れを鎮め、街の平穏を守る。それは正しいことのはずだった。


だが、あの雨の中で自分を睨みつけていた少女の目を思い出すたび、その"正しさ"が、少しずつ形を失っていくような気がした。


支局に戻ると、椎名が窓際に立って、暮れゆく空を見上げていた。

晴の姿に気づくと、何も言わずに、ただ小さく頷いた。

まるで、今日という日に何が起きたかを、すでに知っているかのように。


晴は自分の机に戻り、報告書の用紙を取り出した。

ペン先を紙に置いたまま、彼はしばらく動かなかった。


窓の外では、七番区の方角にだけ、いまだ小さな雲がかかったままだった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ