第一話 「晴れ男」
天エウロスの空は、いつも何かを語っている。
この国に生まれた者なら誰でも、物心つく前からそれを教え込まれる。
晴れは喜び、霧雨は悲しみ、灰色の雲は苛立ち、そして黒々とした雷雲は抑えきれない怒り。
人の心の動きが、そのまま頭上の天候として現れる
――それがこの島国の、ごく当たり前の摂理だった。
だから天エウロスの人々は、天気予報を見るように、互いの感情を見て育つ。
学校の朝礼で誰かの頭上に小さな雲がかかっていれば、それだけで「今日は機嫌が悪いのだろう」と察する。
恋人同士の喧嘩は、二人の間に降る通り雨で近所中に知れ渡る。
プライバシーという概念そのものが、この国では他国よりもずっと薄い。
その代わり、この国には「調律省」という機関があった。
感情の乱れが行き過ぎれば、天候は乱れる。
集団の悲しみが豪雨をもたらし、集団の怒りが雷を落とす。
個人の感情であっても、あまりに強ければ局地的な嵐となり、建物を壊し、人を傷つけることがある。
歴史上、そうした災害は幾度となく起きてきた。
中でも三十年前、天エウロス北部の街をひとつ丸ごと飲み込んだ「大嵐」は、今も国民の記憶に深く刻まれている。
だからこの国は、感情を"管理"する道を選んだ。
調律省
――全国民の感情の起伏を常時観測し、閾値を超えた者には「調律」と呼ばれる施術を施す機関。
施術自体は痛みを伴わない。
専用の器具を通して、昂ぶった感情を緩やかに凪がせるだけだ。
だが、それを繰り返された人間の感情は、少しずつ、確実に丸くなっていく。
天宮晴は、その調律省に所属する調律士だった。
支局のビルは、街の中央にそびえる灰色の塔だった。
窓という窓に、常時稼働している気象観測用の装置が取り付けられ、街全体の空の状態をリアルタイムで監視している。
晴の執務机の上にも、小さなモニターがあり、街を四十のブロックに分けた気象マップが絶えず更新されていた。
晴のブロックは、今日も一面の緑
――異常なし、を示す色だった。
窓の外に見える本物の空も、雲ひとつない快晴だった。
作り物めいた深く均一な青。
この国では、それは「異常のない証拠」であると同時に、どこか不気味でもあった。
人が集まって暮らす街で、誰の感情も昂ぶっていない日など、本来ありえない。
晴れすぎた空は、むしろ調律のかけすぎを疑われる。
晴はその空を見上げながら、資料に目を通していた。
彼の仕事は、街の気象マップに異常を感知した際、現地に赴き、対象者の感情状態を計測し、必要であれば調律を施すこと。
淡々とした、機械のような仕事だ。
周囲からは「感情の希薄な人間」と評されることも多いが、晴自身、それを不満に思ったことはなかった。
感情を持たないほうが、この仕事には向いている。
「天宮、七番区で反応。個人単位の異常値」
同僚の声に、晴は顔を上げた。
モニターの一角、七番区のブロックにだけ、ごく小さな灰色の点が点滅している。
「個人単位?」
珍しい、と思う。
天候異常のほとんどは、集団感情によって引き起こされる。
祭りの熱狂、事故現場の悲鳴、選挙結果への怒り
――複数人の感情が重なり合って、初めて空を動かすだけの熱量になる。
たった一人の感情が、独立した気象現象として観測されることは、通常ほとんどない。
「詳細は?」
「それが……計測器が誤作動してるのかもしれない。半径三メートルだけの局地的な小雨。しかも、もう二時間、途切れずに続いてる」
半径三メートル。晴
は無意識に、その数字を頭の中で反復した。
まるで、その人物ひとりのためだけに、空の一部が切り取られ、そこだけ別の天候が敷かれているような数値だった。
「俺が行く」
晴は資料を閉じ、外套を羽織った。
同僚が意外そうな顔をしたが、何も言わなかった。晴が自分から現場に出ることは珍しい。
だが、この数値の異様さは、彼の中の職業的な好奇心を、微かに刺激していた。
七番区は、支局からそう遠くない住宅街だった。
石畳の道の両脇に、古い煉瓦造りの家々が並んでいる。
この区画は数値上、常に安定している地域だった。住人の平均年齢が高く、感情の起伏も少ない。だからこそ、この場所での異常値は、余計に目立った。
晴は懐から携帯型の観測端末を取り出した。
針のような形をした計器で、感情反応の強さを空間中の湿度・気圧の微細な変化として拾い上げる。
街の気象マップよりもさらに精密に、個人単位の異常を追うことができる。
路地を一本入ったところで
――それは、肉眼でも見えた。
小さな、本当に小さな雨雲だった。
まるで誰かが透明な傘を差しているかのように、公園のベンチに座る少女の頭上にだけ、灰色の雲がぽつりと浮かんでいる。
その下に、静かな雨が降り注いでいた。
少女以外の場所には、雨粒ひとつ落ちていない。
乾いた石畳、乾いたベンチの端、乾いた木々の葉。
彼女を囲む半径三メートルだけが、まるで違う世界のように濡れていた。
制服姿だった。
長い黒髪、毛先だけが淡いブルーに染まっている。
俯いた横顔に、雨が静かに伝っていた。
晴は、その光景にしばらく足を止めた。
職務上、何百という天候異常を見てきたはずだった。集団のヒステリーが生む豪雨も、老人の孤独が滲ませる霧雨も。
それでも、これは初めて見る種類のものだった。
まるで、彼女という人間そのものが、独立した気候系を内包しているかのような。
「――すみません」
声をかけると、少女は肩を跳ねさせて顔を上げた。
驚いたような、それでいてどこか諦めたような目をしていた。長いまつ毛の先に、雨粒がひとつ光っている。
「調律省の者です。あなたの周辺で、天候の異常反応が検出されています」
「……知ってます」
少女は短く答えた。
声は硬く、身構えるような響きがあった。
表情に、隠しきれない苛立ちと恐怖が同時に滲んでいる。それを見た瞬間、彼女の頭上の雨が、心なしか少しだけ強くなった気がした。
「放っておいてください。誰かに迷惑かけてるわけじゃない」
「迷惑では、なくても」
「昔から、こうなんです。ちょっとしたことで、すぐ天気が変わる。周りの人には、ずっと気味悪がられてきました」
彼女は自嘲するように笑った。
その笑みの端で、雨粒がひとつ頬を伝う。
それが涙なのか、天候の雨なのか、晴には判別がつかなかった。
この国の人間にとって、それは珍しいことではない。悲しみの涙と、悲しみが呼ぶ雨は、しばしば見分けがつかなくなる。
「私は氷雨灯。感情が出すぎるだけの、ただの人間です。あなたたちが”調律”しなきゃいけないような、大した存在じゃない」
自分から名乗った。
それが晴には少し意外だった。
多くの被検者は、調律士を前にすると身構え、名を伏せようとする。調律を受ければ、感情の記録が国に残る。就職や結婚に響くこともある。だ
からこそ、誰もが自分の感情を隠したがる国で、彼女はまるで、隠すことに疲れ果てているように見えた。
それに
――晴は微かな違和感を覚えていた。
これほど顕著な異常値であれば、本来もっと早い段階で調律省の観測網に引っかかっていてもおかしくない。
だが手元の端末を確認する限り、彼女に関する過去の出動記録は見当たらなかった。
まるで、今日この瞬間まで、誰にも気づかれずにいたかのように
「氷雨、灯さん」
名前を繰り返すと、彼女は探るような目を晴に向けた。
「怖くないんですか。私、"特異点"予備軍ってやつなんじゃないですか?あなたたちの世界だと、放っておけば街ひとつ壊しかねない危険人物」
「怖い、というのが、よくわからない」
晴は正直に答えた。
それは強がりでも、余裕でもなかった。
単に、彼の中にその感情の輪郭がなかっただけだ。
調律士としての訓練を積む中で、あるいはそれ以前から、晴は自分の感情の起伏をほとんど感じたことがなかった。
同僚たちはそれを「適性がある」と評したが、晴自身、それが何かを失った結果なのか、生まれつきのものなのか、深く考えたことはなかった。
灯は、その返答に虚をつかれたような顔をした。それから、探るように晴の顔をじっと見つめた。
「……あなた、何なんですか」
「調律士です」
「そうじゃなくて。あなたの周り、何も動いてない」
灯は自分の頭上の小さな雨雲を指さし、それから晴の頭上
――雲ひとつない、乾いた空間を指さした。
「私はこんなに感情がだだ漏れなのに、あなたは何もない。空っぽみたいに、静か。それって――」
彼女は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「羨ましいのか、怖いのか、自分でもわからない」
その一言が、晴の中の何かに触れた気がした。うまく言葉にできない感覚だった。
彼はいつも、他人の感情の激しさを"測る"側にいた。
それが今、初めて、測られる側に回ったような感覚。
「調律の施術を」
業務的な言葉を口にしかけて、晴は一瞬詰まった。
懐の端末には、すでに閾値超過の反応が表示されている。
この数値であれば、規定上、即時の調律が義務付けられている。
彼女の感情は「整えられ」、記録は「異常なし」として片付けられるはずだった。
だが、なぜか、その言葉がすぐには続かなかった。
目の前で雨に濡れながら、それでも真っ直ぐにこちらを見返してくる少女に、器具を向けることが――どうしてか、できなかった。
「――今日のところは、経過観察にします」
気づけば、そう言っていた。
灯は驚いたように目を見開いた。
「施術、しないんですか」
「規定の閾値には達していません」
嘘だった。閾値はとうに超えている。
だが晴は、その数字を報告書に書く自分を、なぜかまだ想像できなかった。
灯は、しばらく晴の顔を見つめていた。それから、ふっと小さく笑った。今度の笑みには、さっきまでの自嘲がなかった。
「変な調律士」
「よく言われます」
「そうですか」
灯は立ち上がり、鞄を肩にかけた。
頭上の雨は、まだ止んでいない。
だが、心なしか、その粒は少しだけ小さくなっていた。
「――ありがとうございます」
小さな声だった。
晴が何と返すより先に、彼女は歩き出していた。細い背中に、灰色の雨だけが寄り添うように降り続けている。
石畳に落ちる雨音が、彼女の足音と重なって、やがて路地の先に消えていった。
晴はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
懐の端末が、静かに警告音を鳴らしている。
未処理の異常値。
報告書には、いずれ何かを書かねばならない。だが今は、それよりも先に、胸の奥にある小さな引っかかりの正体を、確かめたい気持ちが勝っていた。
支局に戻る道すがら、晴は空を見上げた。
相変わらず、彼の頭上には何もない。快晴。感情の動かない証拠。
それなのに
――かつて感じたことのない何かが、確かにそこにあった。
名前のない感情に、晴はまだ、気づいていなかった。




