第十話 「秘密の丘」
「今度の休み、空いてますか」
灯にそう尋ねられたのは、いつもの下校の道すがらだった。
夕方の風が、二人の間を吹き抜けていく。
晴は、質問の意図を測りかねて、一拍置いてから答えた。
「非番であれば、観測は継続しますが、時間の融通はきくと思います」
「そういうことじゃなくて」
灯は、呆れたように笑った。
歩調を緩め、隣を歩く晴の顔を覗き込む。
「観測とか監視とか、そういうのじゃなくて。普通に、遊びに行きませんかって聞いてるんです」
その言葉の意味を、晴は少しの間、うまく飲み込めなかった。
専属監視という職務の枠組みを完全に外れた誘い――それは、これまでの三ヶ月あまり、灯との間に一度もなかった種類の申し出だった。
頭の中で、規定や報告書といった単語が浮かびかけたが、それより先に、胸の奥で何かがふわりと軽くなるような感覚があった。
「――行きます」
晴が答えると、灯は満足そうに頷いた。
長い黒髪が、夕陽を受けて艶やかに揺れる。
「じゃあ、決まり。連れて行きたい場所があるんです」
約束の日、朝から雲ひとつない晴天だった。
晴は私服で灯の家の前に立っていた。
灰みがかった銀髪に合わせて、いつもより落ち着いた色味のシャツを選んだが、それでも制服然とした無彩色の傾向は拭えなかった。
灰色のシャツに、同じく灰色に近い薄手の上着。まるで、私服ですら「調律士らしさ」から逃れられずにいるような組み合わせだった。
灯はそんな晴を見て、くすりと笑った。
「相変わらず、色がないですね」
「意識したことは、ありませんでした」
「今度、私が選んであげましょうか」
軽口を交わしながら、灯は晴を先導するように歩き出した。
彼女自身は、動きやすい生成り色のブラウスに、丈の短いデニム地のスカートという、休日らしい軽装だった。
制服姿とも、家での普段着とも違う、彼女のもう一つの顔を見たような気がして、晴は少しの間、その後ろ姿から目を離せずにいた。
向かった先は、七番区の外れ、住宅街を抜けてさらに奥、これまで晴が観測のために訪れたことのない一帯だった。
専属監視官として彼女の生活圏をほぼ把握しているつもりでいた晴にとって、それ自体が小さな驚きだった。
道はやがて舗装が途切れ、ゆるやかな上り坂に変わっていく。
両脇には背の高い草が生い茂り、風が吹くたびにさらさらと乾いた音を立てた。
時折、名も知らない小さな花が、草の間から顔を覗かせている。
灯は慣れた足取りでその坂を登っていき、時々振り返っては、晴が遅れていないかを確かめるような仕草を見せた。
しばらく登ると、視界が急に開け、小高い丘の上に出た。
丘の頂には、一本の大きな木が立っている。
幹の太さから見て、相当な年月を経た古木だとわかった。
太い枝が四方に広がり、その葉群れが作る木陰は、丘全体を覆うほどの大きさだった。
その木陰に、誰かが置いたとおぼしき古い木製のベンチが、静かに佇んでいる。長年風雨にさらされたのだろう、表面の塗装はほとんど剥げ落ち、木目がそのまま浮き出ていた。
「ここ、私の秘密の場所なんです」
灯は、木の幹に手を触れながら言った。ざらついた樹皮の感触を確かめるように、指先でそっとなぞる。
「小さい頃、辛いことがあると、いつもここに来てました。誰も知らない、私だけの場所」
「――ここに、来たことがあるのは」
「晴が初めて。結衣にも、まだ教えてない」
その言葉に、晴の胸の奥で、小さな何かが跳ねた。
名前のわからない、けれど確かに存在する感情。
灯はベンチに腰掛け、隣を軽く手のひらで叩いた。
晴は言われるままに、その隣に座った。
木のベンチは、日に温められて、ほんのりと温かかった。
丘の上からは、七番区の街並みが一望できた。
煉瓦色の屋根が連なり、遠くには中央塔の灰色の姿もかすかに見える。
さらにその向こうには、大嵐記念公園の一帯だけが、他とは違う薄灰色の雲に覆われているのが、小さく見て取れた。
空は、雲ひとつない澄んだ青
――だが、灯の頭上には、その青とは別に、彼女自身の淡い水色の光が重なっていた。
二つの青が重なり合い、ひとつの色として溶け合っているようにも見えた。
「ここに来ると、なんだか息がしやすいんです」
灯は、膝の上に手を置き、遠くの景色を眺めながら言った。
風が吹くたびに、彼女の黒髪と、毛先の淡いブルーが、柔らかく波打った。
「街の中にいると、いつも誰かに見られてる気がして。実際、見られてるんですけど。でもここは、誰も来ない。空も、街も、全部見えるのに、自分だけは誰にも見られてない」
「見張られている感覚から、逃れられる場所ということですか」
「そう。……あ、でも」
灯は、いたずらっぽく晴の方を見た。目が合うと、彼女の口元に小さな笑みが浮かぶ。
「今日は、晴に見られてますね」
「――申し訳ありません」
「謝らなくていいですよ。今日は、特別に許可してあげる」
彼女はそう言って、声を立てて笑った。
屈託のない、心の底からの笑い声だった。
その声は、丘を吹き抜ける風の音と重なりながら、しばらく余韻を残していた。
晴はその笑い声を聞きながら、彼女の頭上の空を見上げた。
淡い水色の光が、風に揺れる木の葉の隙間から差し込む陽光と重なり合い、きらきらと瞬いているように見えた。
木漏れ日が、彼女の頬に、細かい光の斑点を描いていた。
晴は、これまで数え切れないほど、灯の感情の動きを観測してきた。
喜び、悲しみ、怒り、そのすべてを、彼は職務として記録し、数値として処理してきた。
だが今、目の前で笑う灯の姿を見つめながら、晴は、これまでのどの観測記録にも当てはまらない感覚に包まれていた。
それは、測ることのできない何かだった。
心拍数でも、湿度でも、気圧でもない。
彼の胸の奥で、ただ静かに、けれど確かに広がっていく、名前のない温もりだった。
「――晴?」
灯が、不思議そうに晴の顔を覗き込んだ。
至近距離で目が合い、晴は思わず視線を逸らしそうになった。
「またその顔。困ったような、考え込んでるような」
「……何でもありません」
「またそれだ」
灯は苦笑しながら、視線を再び街並みに戻した。
しばらくの間、二人は言葉を交わさず、ただ並んで、眼下に広がる街の景色を眺めていた。
風が、灯の黒髪を優しく揺らし、毛先の淡いブルーが陽光を弾いてきらめく。
遠くで、小鳥の鳴き声が響いていた。丘の斜面に生い茂る草の間を、虫たちが小さく音を立てて動き回っている。
晴は、その横顔を見つめながら、自分の胸の中で膨らみ続けている感情の正体を、ようやく朧げに理解し始めていた。
それは、職務上の関心でも、単なる好奇心でもない。
もっと個人的で、もっと不確かで、それでいて、これまでの人生で一度も感じたことのない、確かな熱を持つ何かだった。
――これは、何なのだろう。
その問いに、晴はまだ、名前をつけることができずにいた。
だが、灯の笑顔を見るたびに、胸の奥で疼くこの感覚だけは、もう見て見ぬふりができないほど、はっきりとした存在感を持ち始めていた。
丘の上に、静かな時間が流れていた。
木漏れ日が二人の間に落ち、風がまた一段と優しく吹き抜けていく。
灯の頭上には、これまでで最も澄んだ、穏やかな晴れ間が広がっていた。




