第十一話 「呼び出し」
中央塔への呼び出しは、前触れもなく届いた。
支局の受付端末に表示された一通の通達。
差出人の欄には「調律省本部・黒曜忍」とだけ記されていた。
晴は、その名前に見覚えがなかった。
だが、椎名がその名を目にした瞬間、僅かに表情を強張らせたのを、晴は見逃さなかった。
「本部の幹部だ。……気をつけろよ」
椎名はそれだけ言うと、それ以上の説明を避けるように、自分の執務に戻っていった。
その態度の不自然さが、かえって晴の中に、拭いきれない緊張を残した。
中央塔は、七番区からは遠く離れた、首都圏の中心にそびえていた。
第三支局の灰色の建物とは比較にならないほど巨大で、その頂上には、国全体の気象を観測するための巨大な装置が据えられている。
塔の外壁には、街の各区画の気象マップをリアルタイムで映し出す巨大なスクリーンが埋め込まれ、道行く人々は、日常的にそれを見上げながら生活していた。
晴もまた、七番区に赴任する以前は、この塔の内部で研修を受けたことがあった。
だが、上層階に足を踏み入れるのは、これが初めてだった。
受付で身分を告げると、案内係の職員が、無言のまま晴をエレベーターへと導いた。
上昇するにつれ、窓の外に広がる街の景色が、次第に小さくなっていく。
七番区の方角には、相変わらず穏やかな空が広がっていた。
灯は今頃、学園で授業を受けているはずだった。
通されたのは、最上階に近い一室だった。
重厚な扉を開けると、そこは執務室というより、応接室に近い趣の部屋だった。
壁には、この国の古い地図や、歴代の調律省長官らしき人物の肖像画が掛けられている。
窓際に置かれた重厚な机の向こうに、一人の男が座っていた。
黒髪に白髪の交じった、後ろに撫でつけた髪型。
深い黒褐色の瞳は、常に半眼で、感情の動きをまるで感じさせない。
恰幅の良い体躯を、濃紺に金の刺繍が施された幹部用の礼服が包んでいた。
その重厚な佇まいだけで、部屋の空気が僅かに張り詰めるのを、晴は肌で感じた。
「天宮晴、です」
「知っている」
男――黒曜忍は、書類から顔を上げることなく答えた。
低く、腹の底に響くような声だった。
「座れ」
晴は、勧められた椅子に腰を下ろした。
忍は、ようやく書類を置き、正面から晴を見据えた。
その視線には、値踏みするような、あるいは何かを確かめるような、複雑な色が滲んでいた。
「氷雨灯の専属監視、お前が担当しているそうだな」
「はい」
「三ヶ月経って、成果は」
「対象の感情反応について、詳細な記録を継続しています」
忍は、その答えに、僅かに口の端を歪めた。
それが笑みなのか、嘲りなのか、晴には判別がつかなかった。
「記録、か。それにしては、報告書の提出が随分と遅れているようだが」
その指摘に、晴は言葉を詰まらせた。
灯の初めての晴れ間
――噴水広場でのあの出来事を、彼はいまだに、正式な記録として書き上げられずにいた。
忍がそれをどこまで把握しているのか、晴には見当がつかなかった。
「業務が、立て込んでおりまして」
「嘘が下手だな」
忍は、静かにそう言った。
責めるような口調ではなかった。
ただ、事実を淡々と指摘する、それだけの声色だった。
「単刀直入に言おう」
忍は椅子に深く座り直し、両手を机の上で組んだ。
「深入りするな」
その一言は、晴が予想していたよりも、遥かに直接的だった。
「――と、いいますと」
「氷雨灯だ。お前が、あの対象に対して個人的な感情を抱きつつあることは、こちらでも把握している」
晴は、反論の言葉を探した。
だが、玲や環に指摘された時と同じように、今回もまた、言葉はすぐには出てこなかった。
「彼女は、特異点予備群だ。国家にとって、いつ危険因子になるかわからない存在として登録されている。お前のような若い調律士が、感情的に肩入れするような対象ではない」
「彼女の危険性について、具体的な根拠は」
晴が問い返すと、忍の目に、僅かな鋭さが宿った。
「根拠は、こちらで判断する。お前が知る必要はない」
その言葉には、これ以上の質問を許さない、明確な拒絶が込められていた。
晴は、それでも食い下がろうとした。
灯に関する記録の欠落、環の家で見た古い戸棚、玲が語った「上の判断」
――それらの断片が、この男の存在と、どこかで繋がっているような予感が、晴の中で膨らんでいた。
「もう一つ、聞かせてください」
「何だ」
「なぜ、俺が呼ばれたのですか。専属監視官への注意であれば、支局長を通せば済むはずです」
忍は、しばらく黙って晴を見つめていた。長い沈黙の後、彼はゆっくりと口を開いた。
「お前の姓は、天宮だったな」
「はい」
「養護施設に入る前の、本来の姓を知っているか」
その問いに、晴の心臓が、僅かに跳ねた。
「――東雲、です」
「そうか」
忍の表情は、変わらなかった。
だが、その声には、これまでにない重さが滲んでいた。
「東雲の血は、危険だ」
その一言が、部屋の空気を、決定的に変えた。
晴は、自分の呼吸が、一瞬止まったのを感じた。
「――どういう、意味ですか」
「今は、それ以上は言えん」
忍は、話を打ち切るように立ち上がった。
窓の外、七番区の方角に視線を投げる。
その横顔には、単なる警告以上の、何か複雑な感情が滲んでいるように、晴には見えた。
怒りでも、憎しみでもない。
もっと深く、長い年月をかけて積み重ねられた、消えない何か。
「ただ、覚えておけ。お前が氷雨灯に近づけば近づくほど、事態は――お前の想像している以上に、悪い方向に転がる」
「それは、脅しですか」
「忠告だ」
忍は、晴の方を振り返った。
半眼の奥、深い黒褐色の瞳が、初めてはっきりと晴を捉えた。
「お前の家族が、なぜ死んだのか。それを本当に知りたければ、余計なことに首を突っ込まず、大人しくしていることだ」
その言葉には、明らかに、忍自身がその真相を知っているという含みがあった。
晴は、それ以上何も言えなかった。
ただ、胸の奥で、これまでにない強い衝動――知りたい、という欲求が、抑えきれないほど膨れ上がっていくのを感じていた。
「今日のところは、これで終わりだ。下がっていい」
忍はそう言って、再び書類に視線を落とした。
晴は、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて、一礼して部屋を出た。
エレベーターで下降していく間、晴は窓の外に広がる街を見下ろしていた。
七番区の方角――灯のいる場所は、変わらず穏やかな空の下にあった。
だが晴の中では、これまでの静けさが、音を立てて崩れ始めていた。
東雲の血は、危険だ。
その言葉の意味を、晴はまだ、正確には理解できずにいた。
だが、それが自分の中にぽっかりと空いた、あの記憶の空白と、どこかで繋がっているのではないか
――その予感だけが、彼の中に、消えない爪痕として残っていた。




