第八十八話「ママ」
晴たちが、決行に向けて準備を進めていた二週間の間
――灯にとって、これまでで最も過酷な日々が続いていた。
中枢卿は、普通の施術では自我を失わない灯の、別の方法を取ることにした。
調律省の男性が、環の腕に、注射器の針を突き立てる。
腕の血管に、液体がゆっくりと押し込まれていく。
「――やめて!!」
灯は悲鳴を上げた。
環の体が、僅かに痙攣する。
額に、脂汗が滲み始めた。
「――小さいところから、少しずつ、壊さなきゃ、ね」
中枢卿の声は、あくまでも軽やかだった。
まるで、菓子でも選んでいるかのような、そんな、無邪気さすらあった。
「――灯、私のことは、ママって呼んで」
その要求に、灯は耳を疑った。
頭の中が、真っ白になる。
「――嫌、です」
「あら、そう」
中枢卿は、それだけ言うと、傍らの男性に目配せをした。
環の、腕に再び、注射器が近づけられる。
針先が、皮膚に触れる、その瞬間、
「――やめて!!わかった、わかりました!」
灯は、必死に叫んだ。
声が掠れ、喉が痛んだ。
「――ちゃんと、呼んでくれたら、環さんに、解毒剤を、あ、げ、る♡」
灯は、唇を、強く噛みしめた。
屈辱と、嫌悪感で、体の芯から、震えが込み上げてくる。
それでも、環の命がかかっている。
灯には、選択の、余地はなかった。
「――マ……マ……」
その一言を、絞り出すのに、これまでの人生で、これほどの抵抗を感じたことはなかった。
喉の奥が、締め付けられるように痛んだ。
「――もっと、ちゃんと」
「――ママ」
灯は、涙を堪えきれないまま、そ、繰り返した。
頬を、熱い、涙が、幾筋も伝い落ちていった。
環に、解毒剤が与えられた。
環の意識は、痛みと、安堵とが、入り混じったまま朦朧としていた。
荒い、息遣いだけが、環の生存を辛うじて示していた。
「かわいい!かわいい!あたしの、灯!」
中枢卿の、声が弾んだ。
「あなたに、なりたいって、思ってたけど――悩んじゃう!あたしの、子供にして、そばに、ずっと、いてもらおうかしら」
あまりにも、身勝手な言葉に、灯の堪えていた、怒りが、限界を超えた。
拳を、震わせながら、灯は叫んだ。
「――この、下衆が!!!!」
「――だめよ。そんな、言葉を、使っては」
中枢卿の、声色が、瞬時に変わった。
冷たく、平坦な響き。
温度の、感じられないその声に、灯の背筋が凍りついた。
環に、再び毒が与えられた。
環の、体が、びくりと震える。
「――だめよ、悪い子ね」
「ママに、そんな言葉、使ったら、だめでしょう?」
「――ごめんなさい。ごめんなさい……」
灯は、震える声で、必死に謝罪した。
だが、怒りを覚えた中枢卿に届いていないようだった。
環に注射器が刺さるのが見える。
涙が、止めどなく溢れ出していた。
「――本当に、わかってるのかしら」
中枢卿の声には、冷たい響きが宿っていた。
「悪い子には、お仕置きしないと、ね?ママも、こんなこと、したくないんだけど」
その、言葉と共に
――灯の体に、電気ショックと、これまでにない、強い施術が同時に流れ込んできた。
全身の神経という、神経が、一斉に、燃え上がるような感覚。
「――いやぁあああ!!!!」
灯の、絶叫が響き渡った。
全身を、貫く、激しい痛み。
視界が、白く、点滅する。
意識が、瞬く間に、遠のいていく。
「ママも、悲しいわ」
灯の意識は、完全に途切れた。
一日後、灯は、強制的に、電気ショックによって、目を覚まされた。
体の、奥底から、痺れるような、痛みがまだ、燻っていた。
「――いつまで、寝てるの?寝過ぎよ」
中枢卿の声が、頭上から降ってくる。
「もし、また三日も、寝てたら――この人、死んじゃうじゃない」
その言葉に、灯の朦朧とした意識が、瞬時に覚醒した。
回らない、頭の中、灯は必死に環の姿を捉えようとした。
目の焦点が、なかなか合わなかった。
――そうだ。解毒が、まだ。
「――ごめん、なさい、ママ」
灯は、涙を、流しながら、震える声で、そう告げた。
「あたしが、全部、悪かったの」
従順な言葉に、中枢卿は満足げに応じた。
「いい子ね。わかってくれて、嬉しい。ママは、あなたが、大好きよ」
環に、解毒剤が与えられた。
だが、環の意識はもはや、なかった。
ぐったりと、力の抜けた体。
頭が、力なく、傾いだまま、動かなかった。
「――大丈夫。まだ、生きてるから、安心してね?」
中枢卿の、軽い言葉が、灯の胸を抉った。
――こんなことが、許されるのか。
「そうだ!あなたの名前、今日から変えましょう。灯より素敵な名前をつけてあげる!」
灯に対抗の言葉はもうなかった。
「あなたは紬。今日から紬よ」
繭の中で、声がリピートされる。
「忘れないように、ね?」
強い施術の気配がした。
意識が飛ぶ。
"あなたは紬。今日から紬よ"
繭の中でその言葉がずっとリピートされていた。
灯の精神は、少しずつ崩壊していった。
抵抗する気力すら、削り取られていく、灯は無力に、受け止め続けるしかなかった。




