第八十五話「人質」
いつのまにか、灯は、意識を失っていた。
「――おはよう」
その声に、灯は、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
視界が、ぼんやりと霞んでいる。
頭の奥に、鈍い痛みが残っていた。
声の方向に、灯は、力を振り絞るようにして、視線を向けた。
「すごい!まだ、消えてないんだ!!結構、強めに、かけたんだけどな」
その言葉で、灯は、瞬時に状況を察した。
全身に繋がれた、無数の管。
腕、首筋、脚
――その、一本一本から、伝わってくる冷たい感触。
それは単に、生命を維持するためだけのものではなかった。
施設で受けていた施術よりも、遥かに強い施術を、絶えず灯に施し続けている
――そういう、ものだったのだ。
指先を、動かそうとしても、鉛のように、重く、思うように、力が入らなかった。
「灯が悪いんだよ?だって急に暴れ出すんだもの」
自分の出生の話を聞いて、この母親に乗り移っているものの正体を知って、自分の置かれている状況を知って
――正気を保っていられなかったのだ。
「全然、起きないからびっくりしちゃった!色々、ショックだったよね?三日も寝てたんだよ」
――三日も。
頭が痛い、声が必要以上に響く。
三日間、この繭の中で、意識もないまま横たわり続けていた。
灯の背筋に、震えが走った。
「やっぱり、すごいね!愛!愛の、結晶!!素敵。早く、あなたに、なりたい」
無邪気とも思える口調が、いっそう灯の背筋を凍らせた。
異常な、軽やかさ。灯は、返す言葉すら見つけられなかった。
「ねぇ、天宮晴、あなたと、彼、どういう、関係?彼が、すごく、あなたに固執してるみたいだけど」
その名に、灯の胸が鋭く痛んだ。
心臓が、速く脈打ち始める。
――晴さん……。
「あなたのいた施設に、彼、賊に紛れて、乗り込んできたのよ?」
灯は、大きく目を見開いた。
知らなかった。
晴さんが、あたしを助けに来てくれていたなんて。
胸の奥、温かいものと、それを遥かに上回る、痛みとが、同時に込み上げてきた。
もう少し、早ければ。
もう少し、あの場所に、留まっていれば
――そんな、詮無い想いが、灯の中を駆け巡った。
「幸い、あなたはすでに、ここに連れてきてもらってたから、よかったけど。本当に嫌になっちゃう。あたしの、邪魔をするものは、全部、消してしまわないとね」
あまりにも軽い口調で語られる、恐ろしい言葉に、灯はぞっとした。
まるで、道端の石ころでも蹴り除けるかのような、その無関心さ。
だが、それでも、屈するわけにはいかなかった。
灯は、震える唇を、強く噛みしめてから、声を絞り出した。
「――晴さんは、必ず、来ます」
その声は、掠れ弱々しかった。
それでも、灯は、目だけは逸らさなかった。
「――本当に、その目、屈しないわね。すごいわ」
中枢卿は、感心したように、そう呟いた。
その声には、微かな、面白がるような、響きすら混じっていた。
それから、その声色に、悪戯めいた響きが混じった。
「でも、これなら――どうかしら?」
その言葉と共に、調律省の制服を着た男性が二人現れた。
無機質な足音が、部屋の中に、規則正しく響く。
二人が、連れてきたのは――。
「――環さん!」
灯は、思わず叫んだ。
声が、繭の内壁に反響した。
最後に会った時の姿から、驚くほどやつれていた。
頬が、こけ、髪も乱れている。
かつての、丸みを帯びた優しい輪郭は、見る影もなかった。
こんなに、老けていただろうか。
こんなに、小さな人だっただろうか
――灯の目に映る環の姿は、これまでの記憶とは、あまりにも違っていた。
「環さん!環さん!!」
灯の、必死な叫びに、環がはっと顔を上げた。
その目が、灯を捉える。
虚ろだったその瞳に、一瞬にして光が宿った。
「――灯?灯!!」
環の声も震えていた。
だが、その両腕は、二人の男性に、強く押さえつけられたまま、動かせずにいた。
環は、それでも灯の方へと、体を伸ばそうとした。
必死な抵抗を、男性たちは無表情のまま、力任せに押さえ込んだ。
男性の一人が手にしていた、注射器。
透明な液体で満たされた、細い筒。
それを、灯の目の前で、掲げて見せた。
「――これ、何だと、思う〜?」
中枢卿の声が、楽しげに続いた。
まるで、余興でも披露するかのような、明るさが、いっそう恐ろしかった。
「毒」
その一言に、灯の全身が凍りついた。
心臓が、ばくばくと、耳の奥で鳴り響いていた。
「でも、安心して?そんなに、強くないし、遅延性、だから」
中枢卿は、なおも軽い調子を崩さなかった。
「あなたが、上手に、やれば――解毒剤、あるからね?」
その言葉の裏に隠された、明確な脅し。
灯は、言葉を失ったまま、ただ、環の震える姿を、見つめ続けていた。
「灯、私のことは気にしないで」
環の目には、灯を案じる色と、捕まってしまったことにより、灯を巻き込んでしまったことへの、深い詫びの色とが、入り混じっていた。
これまで感じたことのない、絶望と無力感が、灯の胸を、重く支配していった。
管に繋がれた無力な体。助けを求める声すら届かない、この場所。
灯は、どうしたらいいか分からず絶望に打ちひしがれていた。




