第八十四話「協力者」
「――たった一人の女のために、よくここまで、辿りついたものだ。天宮――いや」
忍の半眼の奥、その瞳がまっすぐに晴を捉えた。
月明かりが、忍の輪郭を青白く縁取っていた。
「東雲晴」
本来の名を告げられた瞬間、晴の背筋に冷たいものが走った。
心臓が、激しく鼓動を打ち始める。
手のひらに、じっとりと汗が滲んだ。
晴の頭の中で、瞬時にいくつもの思考が駆け巡った。
――どう、この場を、切り抜けるか。
幸い、忍は一人のようだった。
背後に、他の気配は感じられない。
ならば、強行突破も不可能ではない
――晴がそう判断し、体に力を込めた、その瞬間だった。
「――やめろ」
傍らから、翔の声が鋭く飛んだ。
晴の腕を、翔が力強く掴んでいた。
骨が軋むほどの強さだった。
「この人は、協力者だ」
晴は、思わず目を見開いた。
振り解こうとした腕が、翔の握力に押しとどめられたまま動かなかった。
「――協力者、って」
「とはいえ、俺と、付き合いがあるわけじゃない。手紙のやり取りだけで、会ったことは、なかったんだ。ただ――親父から聞いていた、風貌にそっくりだ」
翔は、忍の姿をまじまじと見つめながら、そう続けた。
値踏みするようなその視線には、まだ完全には拭えない、警戒の色も滲んでいた。
「――黒曜幹部と、親父さんが……?」
晴の頭の中は混乱していた。
どういうことだ。
この男が、地下集落の、重蔵さんと繋がっている、というのか。
これまで、積み重ねてきた忍への疑念と、目の前の事実とが、うまく噛み合わなかった。
「親父の付き合いだから、俺もよくはわからない。ただ、敵じゃないってことだけは、確かだ」
晴は、すぐには頷けなかった。
拳を握りしめたまま、忍を睨み続けていた。
「――信じられない」
「信じられなくても、事実だ」
翔は、静かに、確かな口調で言った。
「お前も、見ただろう。一斉送還の、密告の手紙を」
晴の脳裏に、あの日の光景が鮮明に蘇った。
地下集落、翔の家に、慌てた様子で、駆け込んできた若者。
折り目のついた、一通の手紙。
翔の顔色が、みるみるうちに、変わっていったあの瞬間。
「――嘘だ」
晴は、思わず、そう呟いた。
信じたくない、という思いが、頭の中で渦を巻いていた。
「――そうだ。あれは、私が送ったものだ」
忍が、静かに口を開いた。
感情の読めないその声には、これまでにない重みが宿っていた。
これまでの忍という人物への印象が、大きく揺らぎ始めていた。
「――味方、なら」
晴は、忍を睨みつけた。
声に、抑えきれない、憤りが滲んでいた。
「なぜ、全てを知っていて、止めようとしないんだ。それができる、立場だろう!」
その、叫びにも似た問いに、忍は沈黙した。
夜風が、開け放たれた扉から、居間へと、静かに吹き込んでいた。
「――そんな、簡単な話では、ないのだよ。私の家も――調律省もね」
忍の声には、複雑な翳りが滲んでいた。
黒曜に生まれた宿命と、背負っている多くの従業員たちの生活。
その全てを、一人の判断で覆すことの、あまりの困難さ
――忍の、その一言に凝縮されているようだった。
「――俺は、信用できない」
晴は、そう、言い放った。
爪が、掌に、深く食い込んでいた。
「信用しなくても、いいが」
忍は、静かに、晴を見据えた。
「――どうするんだ。調律省内だけじゃない。地下には、兵器人形たちが、わんさかいるぞ」
その、聞き慣れない言葉に、晴は思わず言葉に詰まった。
「――兵器、人形」
不穏な響きに、玲も、翔も、六花も、それぞれ、緊張の色を深めていた。
六花は、無意識に、自分の腕を抱くようにして、身を竦めていた。
その、重い沈黙を、破ったのは玲だった。
「――私は、信用します」
玲は、一歩、前に進み出た。
忍の目を、まっすぐに見据えながら。
その足取りに、迷いはなかった。
「だから、教えてください」
玲の声には、迷いのない、確かな、覚悟が、宿っていた。
「調律省の、このシステムを、壊すためには。中枢卿から、灯を、取り戻すためには――どうすれば、いいんですか」
忍は、玲の顔を、じっと見つめ、それから静かに、目を伏せた。
「――私も、今のこの国の在り方を、良しとしているわけではない」
静かな告白に、晴は僅かに、目を見開いた。
「だが、私には動けない理由がある。それを、今、話すつもりはない」
忍の声には、譲れない、何かへの線引きが感じられた。
「――これが、最後の、情報提供だと思ってくれ」
忍は、前置きすると、懐から、一枚の古びた地図を取り出した。
中央区の、詳細な地図。
そこには、地下の構造が、細かく書き込まれていた。
「中央塔の地下には、五つの共鳴塔のうち、中枢にあたる、五つ目の塔が存在する。国全体の、感情観測と、調律のすべてが、そこから統括されている」
忍は、地図の一点を、指し示した。
「――お前たちが、目星をつけていた学校の井戸。あれは、確かに、地下水路と繋がっている。だが、それだけでは、中枢までは辿り着けない」
「地下水路を進んだ先に、幾つもの分岐がある。そのほとんどは、行き止まりか、罠だ。正しい道筋を知らなければ、迷い込んで命を落とすことになる」
忍は、地図の上に、指で一本の道筋をなぞって見せた。
複雑に入り組んだ地下水路の中、一本だけ記された、赤い線。
「この、道筋を辿れば、中枢卿の、いる場所――中央塔の、直前まで辿り着ける。だが、そこから先は、私にもわからない」
「――兵器人形、というのは」
晴が尋ねる。
「感情を、完全に喪失した、“卒業”後の人間の、一部だ。子どもは外国に送られるが、大人はそうではない。幾人かは、感情を失ったその体を利用され、戦闘用の道具として、改造されている」
六花の顔が、みるみるうちに青ざめていった。
翔が、その肩に、そっと手を置いた。
「奴らには、痛みも、恐怖もない。命令に忠実に動くだけの、存在だ」
「――システムを、止めるには」
忍は、続けた。
「中枢の塔、核となる部分を、直接破壊するしかない。それが、唯一の方法だ」
「――それで、この国の、感情天候システムは、完全に、止まるんですか」
晴の問いに、忍は頷いた。
「五つの共鳴塔は、すべて中枢と連動している。中枢さえ止めれば、他の四つの塔も、その機能を失うだろう」
翔たちが、東部の一角だけで、成し遂げてきたことの、その先にある、本当の目標が、初めて明確な形を取り始めていた。
「――中枢卿とはどのような存在なんですか」
玲が、尋ねた。
「この世界の最高権力者であり、はじまりであり、悲しみであり、怒りであり、亡霊だ」
忍は、地図を晴の手に、そっと握らせた。
「――これを持っていけ。私は、これ以上、お前たちに関わるつもりはない。次に会う時は、敵として、対峙することになるかもしれぬ」
その言葉を最後に、忍は背を向けて立ち去ろうとした。
「――独り言だが、二週間後に調律省の創立記念がある。その日は街が賑わい、調律省も全員非番だ」
忍は、そう言い、夜の闇の中へと、溶けるように消えていった。




