第七十九話「蓮と雫 Ⅴ」
嵐は、氷雨邸を中心に、半径数十メートルにも及ぶ、広範囲を飲み込んでいた。
その付近にいたほとんどの者たちが、強風に体を飛ばされた。
あるいは、飛来する瓦礫の直撃を受け、地に倒れ伏していた。
悲鳴と呻き声が、あちこちか、響いている。
庭木が、根こそぎなぎ倒され、土埃と木片が混ざり合った暴風が、視界を遮っていた。
もはや、誰一人として、まともに立っていられる状態ではなかった。
環は、たまたまいた場所が良かった。
広間の隅、頑丈な太い柱の陰。
そこに身を寄せていたことで、環は辛うじて、強風から身を守ることができていた。
両腕で、頭を庇いながら、環は荒れ狂う、暴風の中、ただ必死に耐え続けていた。
柱に爪を立てるようにしてしがみつく。
すぐ傍を、割れた食器の破片が、風を切って飛んでいった。
目の前で、崩れ落ちていった蓮の姿。
血に染まったその体。
環の脳裏には、その光景だけが、繰り返し蘇っていた。
「――若様……」
環の目から、涙が溢れ出した。
頬を伝う涙は、吹きすさぶ風に攫われていった。
時間にして、それほど長い時間ではなかったのかもしれない。
それでも、あまりの被害と規模の大きさに、環には途方もなく長い時間のように感じられていた。
崩れていく、天井の一部。
吹き飛ばされていく、家具の残骸。
梁の軋む、耳障りな音。
世界そのものが、終わりを迎えるかのような、そんな恐ろしい光景が、環の周りを絶え間なく包み続けていた。
そのうち、環は異変に気づいた。
遠くに見える雫の姿が、苦しげに呻いているのが見えた。
その様子に、環ははっと、息を呑んだ。
――産気づいたのだ。
環は迷わなかった。
強風の中、体を低くしながら這うようにして、雫の元へと進んでいった。
飛来する破片を避けながら、少しずつ、少しずつ。
肘や、膝が、瓦礫の欠片に擦れ、血が滲んでいくのも構わずに。
「――雫様!しっかり、してください!!」
環の声に、雫は、朦朧としながらも、微かに目を開けた。
荒れ狂う嵐の音の中、環は必死に雫の体を支え続けた。
汗と涙で濡れた雫の額を、環は震える手で拭い続けた。
そして、その時はきた。
嵐が荒れ狂う中、小さな産声が上がった。
その声だけは、周囲の轟音にかき消されることなく、環の耳にはっきりと届いた。
環は、その小さな体を震える手で抱き上げた。
指先でそっと、産着の代わりの布を巻きつける。
「――女の子です。元気な、女の子」
環の声に、雫は、力なく微笑んだ。
腕を、僅かに伸ばし、その小さな命に触れようとする。
だが、その動きにすら、雫にはもう力は残されていなかった。
指先が、ほんの一瞬、赤子の頬に触れた。
「――ありがとう」
雫は環を知らない。
だけども我が子を取り上げてくれた、自分を気遣ってくれた。
それだけで十分だった。
雫は、掠れ、消え入りそうな声で、必死に言葉を紡いだ。
「――あたしは、このまま、もう、死ぬと、思う」
「――雫様、そんな」
「お願い。この子を――守って」
雫の目には、覚悟が宿っていた。
環は、言葉の重さに、言葉を失った。
だが、迷っている時間はなかった。
屋敷の周りには、まだ両家の者たちがいる。
この子を無事に逃がすには、今この嵐の混乱に乗じるしかなかった。
「――必ず、お守りします」
環は、小さな命をしっかりと胸に、抱きかかえた。
雫に、深く頭を下げてから、環は荒れ狂う嵐の中へと身を投じた。
瓦礫を避けながら、環は必死に屋敷の外へと走った。
風が行く手を遮るように、幾度も体を押し戻そうとする。
それでも、環は足を止めなかった。
振り返ることはしなかった。
ただ、腕の中の、小さな温もりだけを頼りに。
雫は、遠ざかっていく環の背中を、最後まで見つめ続けていた。
霞んでいく視界の中、その姿が、完全に見えなくなったのを、確認してから
――雫は、静かに、目を閉じた。
意識が完全に閉ざされる最後の瞬間まで、雫の胸には、ただ一つの願いだけが残されていた。
――幸せに、なってね。
やがて、あれほど荒れ狂っていた嵐は、静かに収まっていった。
厚い雲の切れ間から、僅かな、晴れ間が覗き始める。
差し込んだ、一筋の光が、崩れ落ちた瓦礫の山を、静かに照らし出していた。
だが、晴れ渡り始めた空の下に広がっていたのは、あまりにも無残な光景だった。
半壊した、屋敷。
倒れた木々。
至る所に、散乱する瓦礫。
そして、その中に、力なく倒れ伏す幾人もの人々の姿。
地面には、砕けた建材や、割れたガラスが、一面に散らばっていた。
嵐が去った後の静けさこそが、何よりもこの悲劇の大きさを物語っていた。




