第七十七話「蓮と雫 Ⅲ」
雫の幸せそうな笑顔の裏で、俺は、ある異変に気づき始めていた。
つわりが始まったのだ。
朝、目を覚ますたびに、雫は顔を青ざめさせ、えずくことが増えていった。
体調が優れない日が続いた。
俺には、その辛さを代わってやることもできず、ただ傍らで、背中を、さすことしかできなかった。
冷たい海水を、布に含ませ、額に乗せてやることぐらいが、俺にできる精一杯だった。
「――大丈夫、か」
「――平気。これも、赤ちゃんが元気な証拠だから」
雫は、そう言って、無理に笑ってみせた。
だが、その辛さの度に、雫の感情は大きく、揺れ動いていた。
そして、その感情の揺れは、東雲の血が流れていることから、これまでにない規模で、天候に反映されていた。
海沿いの、この一帯の空は、雫の体調が崩れるたび、目に見えて荒れた。
雨が、突如として降り出し、時には雷鳴が遠くから響くこともあった。
洞穴の外、荒れ狂う波の音が、いつもよりいっそう、激しく響く夜もあった。
俺は、その空を見上げるたび、複雑な思いを抱いていた。
雫が、辛い思いをしているという証。
だが、同時にそれは、俺たちの居場所を示す道標にもなりかねなかった。
案の定、その西部一帯の天候不順は、調律省に伝わっていた。
蓮と雫がいなくなった後、氷雨と東雲と調律省は連携をとっていた為、遠く離れた北部のそれぞれの屋敷にまで伝わっていた。
観測記録を持ち込んだ使者が、両家の当主の前で、報告を読み上げる。
「――西部一帯で、これまでにない、天候の乱れが続いております」
「――あの二人は西部にいる可能性が高い」
氷雨の当主は、すぐさま隠密の部隊を西部へと差し向けた。
だが、まさか二人が、これほどまでに人里離れた、洞穴に身を潜めているとは、誰も想像していなかった。
捜索は、街を中心に進められ、宿や商店を、一軒一軒、当たっていった。
その為二人の居所には、辿り着けずにいた。
やがて、雫のつわりも落ち着きを見せ始めた。
安定期に入ったのだ。
体調が安定するにつれて、あの荒れがちだった、空模様も、次第に穏やかさを取り戻していった。
晴れ渡る空を、俺は心から喜んだ。
追手にとっては、手がかりが絶たれることを意味しているからだ。
安心している蓮とは裏腹に、氷雨本部は諦めていなかった。
――必ず、西部にいるはずだ。
氷雨の本部は、その確信だけを頼りに、西部一帯への、監視を緩めることはなかった。
斥候の報告書だけが、来る日も、来る日も、本部の机の上に積み上げられていった。
安定期に入ってから、俺たちも少しずつ街へと出る機会が増えていった。
医者に、体を診てもらう必要もあったし、何より、洞穴での単調な暮らしに、雫が時折気分転換を求めるようになっていたからだった。
「――たまには、街の空気も吸いたいわ」
雫がそう言うたび、俺は警戒しながらも、その願いを叶えてやりたいと思っていた。
俺たちは、粗末な外套で、顔を隠すようにして、街の外れの市場を歩いた。
露店に並ぶ、色とりどりの野菜、行き交う人々の、賑やかな声
――そうした、日常の音や色が、雫の頬に、僅かな赤みを取り戻させていた。
人混みに紛れながらの、その僅かな時間が、雫にとって、大切な息抜きになっているようだった。
だが、その僅かな油断が、命取りになった。
市場で買い物をしていた俺たちの姿を、氷雨の隠密部隊の一人が、見かけたのだった。
人混みの中、ふとこちらへ向けられた、鋭い視線。
だが、その時の俺たちは、それに気付いてはいなかった。
その者は、すぐには声をかけなかった。
遠くから、密かに俺たちの後をつけた。
俺たちは、その気配にまったく気づいていなかった。
買い物を終え、いつもの道を、笑い合いながら、歩いて帰る
――それだけの、ありふれた日常が、その裏で、静かに崩されようとしていた。
その者は、俺たちが身を隠す、海沿いの洞穴を突き止めた。
その者は、すぐさま北部の本部へと取って返した。
馬を、休ませることもなく、何日もかけて駆け続けたと。
「――若様と東雲の娘を見つけました。西部の、海沿いの洞穴です。娘は妊娠しています」
その報告を受け、氷雨の本部は直ちに動き出した。
人員を揃え、洞穴への強襲の、準備が進められていった
地図が広げられ、指示が次々と飛び交う。
俺たちが、その迫りくる危機に気づくことはなかった。
洞穴の中、俺と雫はその日も変わらず、穏やかな時間を過ごしていた。
大きくなった、雫の腹を、二人でそっと撫でた。
だが、その穏やかさが、いつまで続くのか――それを知る術は、俺たちにはなかった。




