第七十六話「蓮と雫 Ⅱ」
氷雨の屋敷を出た夜から、俺と雫の、新しい人生が始まった。
北部の屋敷を離れ、俺たちは幾日もかけて、西部の、とある田舎街へと辿り着いた。
誰も俺たちの顔を知らない土地。
それだけが俺たちにとって、何よりの安心材料だった。
夜通し歩き、僅かな仮眠を取りながら、追手の気配に、絶えず怯えていた。
雫は、一度も弱音をこぼさなかった。
だが、そこでの生活も長くは続かなかった。
慣れない土地での暮らし、僅かな路銀
――それらは、あっという間に底を突いた。
安宿の主人の、疑わしげな視線。
見知らぬ土地特有の、よそよそしい空気。
何より、街の中では、いつ追手の目に留まるとも限らなかった。
そこで、俺たちが辿り着いたのが、街からさらに離れた、海沿いの小さな洞穴だった。
正面には、どこまでも広がる海。
潮騒が、絶え間なく響いている。
背後には、深い森。
木々の匂いが、風に乗って漂ってきた。
人の気配は、まったくなかった。
俺たちのような、身を隠す者にとって、これほど都合の良い場所はなかった。
俺も、雫も、正直なところ、こうした荒々しい暮らしとは無縁の育ちだった。
互いに、屋敷の中で、大切に育てられてきた身。
柔らかな布団、温かい湯浴み、決められた時間に運ばれてくる食事
――そうしたものとは、まったく、無縁の新しい生活。
「――魚、獲れるかしら」
初めて海辺に立った日、雫はそう言って、不安げに笑った。
波打ち際に、恐る恐る足を浸しながら。
俺も、正直自信はなかった。
だが、やるしかなかった。
見よう見まねで、木の枝を削り、簡素な銛を作った。
指先を、何度も切りながら。
何度も、何度も、失敗を繰り返しながら。
空振りに終わるたび、雫が、隣でくすくすと笑うのが、少し悔しくもあった。
ようやく、一匹の魚を仕留められた時、雫は目を輝かせて弾けるような笑顔を向けた。
「――蓮、すごい!やったわ!」
雫は、その場で飛び跳ねるようにして喜んだ。
その日の夜、拾い集めた木の実と、獲れたばかりの魚を、焚き火で炙って食べた。
塩気も、味付けも、ろくにない、素朴な料理。
決して、上等な食事とは言えなかった。
それでも、これまでの人生で、これほど美味いと感じた食事はなかった。
日々は、慎ましくも、穏やかに過ぎていった。
朝は二人で、海へ魚を探しに行く。
昼は森の中で、木の実や、食べられる草を探して回る。
時には、何も収穫がない日もあった。
そんな日は、互いの空腹を、笑い話に変えながら、水だけで、腹を満たすこともあった。
それでも、俺たちは、笑い合いながらその日々を過ごしていた。
ある夜、洞穴の入り口から見える、満天の星空。二人で並んで眺める時間が、何よりの幸せだった。
焚き火の爆ぜる音だけが、静かな夜を、時折彩っていた。
「――こんな暮らし、想像もしてなかった」
雫がそう呟くと、俺は静かに頷いた。
「――辛くはないか」
「――ううん。今が、一番幸せ」
その言葉に、嘘はなかった。
雫の横顔は、屋敷で見たことのない、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
ある日、俺は、雫を洞穴から、少し離れた場所へと連れ出した。
そこには、一本の大樹がそびえ立っていた。
枝葉は、空を覆うようにして広がっている。
「――ここで、俺たちの結婚式をしよう」
俺の提案に、雫は目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑った。
「――誰も、いないね」
「俺たちとこの大樹があればいい。それで、十分だ」
俺は、懐から小さな指輪を取り出した。
海辺で拾った、貝殻と、木の枝を、削って作った、不格好な指輪。
表面には、何度も削り直した跡が残っていた。
それでも、幾日もかけて、夜、こっそりと作り上げたものだった。
「――これしか、用意できなかったけど」
雫は、その指輪を大切そうに受け取った。
目に、涙を浮かべながら。
指に、そっと通してみる。
少し大きすぎたが、雫は、それでも嬉しそうに笑っていた。
「――十分よ。これ以上、ないくらい」
大樹の下、俺たちは一生の愛を誓った。
豪華な式とは、程遠い、あまりにも質素な結婚式。
参列者もなく、祝福の言葉もない。
「――誓います。何があっても、雫を守り抜き、愛し続けることを」
「――私も、誓うわ。蓮を愛して、ずっと一緒にいることを」
海風が、二人の間を、優しく吹き抜けていった。
木漏れ日が、雫の頬に、揺れる影を落としていた。
それから、しばらく経ったある朝のことだった。
雫が、少し、青ざめた顔で俺の元にやってきた。
「――蓮、大事な、話が」
「――どうした」
雫は、少し、迷うような間を置いてから、静かに告げた。
「――赤ちゃんが、できたみたい」
その言葉に、俺は一瞬、言葉を失っていた。
それから、堰を切ったように、喜びが込み上げてきた。
俺は、雫をそっと抱き寄せた。
「――本当、か」
「――ええ」
俺たちの、小さな幸せの中に、新しい命が宿った。
その事実に、俺はこれまでにない、幸福感を感じていた。




