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空が壊れるほどの恋だった  作者: Kakou
【第三部】第二章
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第七十五話「蓮と雫 Ⅰ」

環が、氷雨の屋敷に手伝いとして雇われるようになったのは、二十歳になったばかりの頃だった。


当主の身の回りの世話、屋敷の掃除、来客の応対

――環の一日は、そうした細々とした仕事で埋め尽くされていた。


朝は、日が昇るより早く起き、台所の火を熾すことから始まる。

屋敷中の、拭き掃除を終える頃にはもう、昼近くになっていることも珍しくなかった。


だが、そうした忙しない毎日の中でも、環はこの屋敷での暮らしに、やりがいを感じていた。


氷雨家でお世話になってから数年、環にとって心が動かされるのは、当主の息子である蓮の存在だった。



蓮は、物静かで優しい青年だった。

環が廊下で重い荷物を運んでいると、必ず声をかけ手を貸してくれた。


「――環、一人で無理をするな」


そう言って、荷の半分を、当たり前のように持ってくれる。


「若様!そんな、私の仕事です!」


蓮は苦笑いしながら荷を目的の場所まで運んでくれた。

さりげない優しさに、環は好感を抱いていた。


屋敷の中でも、蓮は使用人たちに対して、決して横柄な態度を取ることのない、数少ない人物だった。

それゆえに、環だけではなく、皆から慕われていた。


そんな蓮が、ある時から一人の娘と密会をするようになった。

心を通わせている様子だった。


娘の名は、雫。

東雲家の、令嬢だった。



環は、当時、理由こそ聞かされてはなかったが、東雲家と、氷雨家――この二つの家が、決して、交わってはならないと、強く言われていた。


人気のある蓮様なので、屋敷の年配の使用人達はその女をよく思ってはいない様子だった。

時折、声を潜めてそのことを囁き合っているのを、環は耳にしていた。


「――東雲の娘と、若様が、会っているらしい」


「――困ったことだ。あの二つの家は、決して、近づいてはならないというのに」


「――若様はあの女に騙されている」


そうした噂話の断片を、環は洗濯物を干しながら、あるいは廊下を掃きながら、幾度となく耳にしていた。


理由も、はっきりとはわからないまま、ただ、"禁忌"という言葉だけが、屋敷の中に重く根を張っていた。



蓮と雫は、人目を忍びながら、逢瀬を重ねていた。

環は、時折その様子を垣間見ることがあった。


庭の片隅、誰にも気づかれないような木陰。

そこで二人は、まるでこの世に二人しか、ないかのように、寄り添い合っていた。


ある日の午後、水を汲みに井戸へ向かう途中、環は、その光景を偶然目にした。


雫が、何か他愛のないことを、話しているのだろう。

蓮が、声を上げて笑っている。


その笑顔は、屋敷の中で環が、これまで一度も見たことのないほど、屈託のないものだった。

雫を見つめる、蓮の眼差しには、深い、想いが宿っていた。


「――あの子といる時だけ、若様は、本当に、幸せそうな顔をなさる」


二人は着実に愛を育んでいた。


ある雨の日、傘も差さず、屋敷の裏門で雫を見送る蓮。

二人の間で、静かに交わされる、言葉にならない名残惜しさ。


またある時は、蓮は庭の花を一輪、そっと懐に、忍ばせて雫に渡した。


二人の想いの、あまりの真剣さに、環いつしか、二人を応援するような気持ちを抱くようになっていた。


もし、自分に何かできることがあるならば

――そんな、密かな願いすら、環の中に芽生え始めていた。



だがその想いは、両家にとって、決して許されるものではなかった。



ある日、氷雨の当主が、蓮を書斎に呼び出した。


環は、廊下の掃除をしながら聞いていた。

障子の向こうから、抑えた、けれど、有無を言わさない、当主の声が漏れ聞こえてくる。


「――東雲の娘と、これ以上関わることは、許さん。すぐに縁を切れ」


「――父上、どうか」


「これは、家の決め事だ。お前一人の、我儘で覆せるものではない」


蓮は、その言葉にそれ以上、何も言い返さなかった。

障子越しに、環に、伝わってきたのは、重く沈んだ沈黙だけだった。


その夜、環は廊下を通りかかった際、蓮の部屋の灯りが、いつまでも消えずにいるのを見ていた。


障子に映る、その影は微動だにせず、ただ一点を見つめ続けているようだった。

環は、声をかけることもできないまま、その場を静かに後にした。



それから、幾日か経った、ある夜のことだった。


蓮の部屋がもぬけの殻になっていた。

開けっ放しの障子、乱れたままの、布団。

異様な気配に、環は、すぐさま部屋の中を確かめた。


文机の上、僅かな荷物が消えている。


代わりに、一枚の書き置きだけが、残されていた。

震える手で、環はそれを、に取った。

短く、けれど、確かな決意が綴られたその文字。


――駆け落ち、なさったのだ。


少しでも遠くへ。

朝になれば嫌でも屋敷のものは気づく。

環は見なかったことにして部屋を後にした。


翌朝、屋敷は騒然としていた。

蓮の失踪が発覚し大騒ぎだ。

当主の怒声、使用人たちの、慌ただしい捜索。

だが、蓮の行方は、誰にも掴めなかった。



屋敷では、蓮の話はタブーとなった。

元々好感度が高く話題に出ることが多かった蓮だったが、誰もその名を口にすることを許されなくなった。


隠密部隊は蓮を探し回っていた。


環は二人が少しでも幸せな時を築いてくれるように祈りながら、変わらずに氷雨家で忙しい毎日を過ごした。

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