第七十四話「氷雨邸再来」
東部を発って二日目の夜。
四人は、小さな宿場町に一泊していた。
狭い一室、囲むように置かれた、粗末な椅子。
ランプの灯りが、壁に四人の影を、長く伸ばしていた。
窓の外からは、旅籠の下の通りを行き交う人々の話し声が、微かに聞こえてくる。
晴は、地図を広げながら、切り出した。
「――これから、どこへ向かうか、決めなければなりません」
玲が、その地図を覗き込んだ。
皺の寄った紙面に、指先を滑らせる。
「中枢卿。システムの中枢。手がかりはあまりに少ない」
「――一つだけ、心当たりがあります」
晴はそう言うと、地図のある一点を、指で示した。
氷雨家旧邸。
指先が触れた場所には、これまでの旅で、何度も折り目がついていた。
「以前、蒼一郎さんから、東雲と氷雨の因縁、調律省創設の経緯を聞きました。ですが、灯自身の両親の物語だけは、まだ聞けていません。もしかすると、その中に何か手がかりがあるかもしれない」
「――両親の、物語」
玲が、繰り返した。
翔も、腕を組んだまま頷いた。
「灯だけが輸送された理由は灯に関することの可能性…か、行ってみる価値はありそうだな」
傍らで、六花も静かに頷いていた。
まだ、多くを語らない六花だったが、その目には、確かな意志の光が宿っていた。
翔は膝の上に置かれた手を、そっと握りしめている。
「――それに」
晴は、少し声を落とした。
「あの屋敷には、まだ、他にも記録が残っているかもしれません。蒼一郎さんがすべてを語り尽くしたとは、限らない」
その言葉に、全員が頷いた。
四人は、しばらくの間、地図を囲んで細かな道筋を確認し合った。
翌朝、四人は氷雨家旧邸を目指して出発した。
旅は、平坦な道のりではなかった。
宿場町を出てから、道は、次第に、細く、険しくなっていった。
舗装の途切れた、土と岩の道。
木々の緑が、次第に色を濃くしていく。
六花は、まだ本調子とは言えない体で、時折、足をもつれさせた。
息を、切らし、額に、汗を滲ませながらも、それでも六花は、弱音をこぼさなかった。
そのたびに、翔がさりげなくその体を支えた。「――少し、休むか」と、翔が声をかけると、六花は、決まって、小さく首を横に振るのだった。
玲は、周囲を絶えず警戒しながら、先頭を歩いた。
物音が聞こえるたびに、片手を上げ、他の三人を制する。
かつて、調律士として鍛えられたその勘は、今、仲間たちを守るために役立てられていた。
崩れかけた古い橋を、四人で慎重に渡る。
谷底から、川のせせらぎが、絶え間なく聞こえてきた。
朽ちかけた木の板が、一歩ごとに軋んだ音を立てる。
晴は、以前一人でこの橋を渡った。
今は、共に歩む仲間たちがいる。
振り返れば、六花の手を引く翔、慎重に足元を確かめる玲――その姿を、晴は目に焼き付けた。
山道を、二日かけて登り続けた。
夜は、持参した天幕の下で、体を寄せ合うようにして眠った。
冷え込む夜気に、四人は互いの体温を、頼りにするように身を寄せ合った。
焚き火を囲みながら、翔が道中の獣の避け方を教えてくれたり、玲が東部で見聞きした些細な出来事を語ったりと、張り詰めた旅の中にも、束の間の和やかな時間があった。
夜空には、都では見られないほどの、無数の星が瞬いていた。
そうして、幾つもの尾根を越え、ようやく集落跡が見えてきた。
晴の記憶にある、あの、崩れかけた門。
その先に、氷雨家旧邸が、静かに佇んでいた。
「――ここが」
玲が、廃墟となった屋敷を見上げながら、呟いた。
翔と六花も、その荒廃した様子に、言葉を失っているようだった。
雑草に埋もれた飛び石、崩れた瓦、蔦の絡まる柱――時の重みを、そのまま、体現したかのようだ。
晴は、四人を囲炉裏のある部屋へと案内した。
蒼一郎は、以前と変わらない様子で、そこに座っていた。
奥から、微かに、木を燃やす匂いが漂ってくる。
「――戻ったか」
「はい」
晴は、蒼一郎の前に膝をついた。
深く、頭を下げる。
「――申し訳、ありません。灯を、連れて来ることができませんでした」
蒼一郎は、しばらく沈黙した。
皺の刻まれた顔に、落胆の色が僅かに浮かんだ。
だがすぐに、静かな諦念に変わっていった。
「――そうか。仕方あるまい」
「――俺たちは、灯を、取り戻すための手がかりを探しています」
晴は地下集落で聞いた人身売買の話、東部の施設を襲撃した時には灯がいなかったことを伝えた。
「システムの中枢、中枢卿という存在。それらに、繋がる何かが、ここに残されているのではないかと」
蒼一郎は、しばらく考え込むように、目を閉じていた。
それから、静かに口を開いた。
「――灯に、直接話したかった。だが時間がないのなら仕方あるまい」
蒼一郎は、囲炉裏の火に新しい薪を、一本くべた。
炎が、僅かに勢いを増す。
晴、玲、翔、六花
――四人は、その炎を囲むようにして、静かに腰を下ろした。
「灯の父と母――蓮と雫、二人の最後の日、大嵐の日のことを、話そう」




