第七十話「木の人形」
施設の奪還から、幾日かが過ぎていた。
晴は毎日のように、あの施設の周辺を歩き回っていた。
灯が、まだどこかに取り残されているのではないか――そんな僅かな可能性を、晴は捨てきれずにいた。
朝、日が昇るとすぐに、晴は集落を出た。
険しい山道を下り、施設の外周へと向かう。
崩れかけた塀の陰、施設の外周に広がる、雑木林。
晴は、その一つ一つを、丹念に確かめて回った。
枝を掻き分け、下草を踏み分け、時には地面に膝をついて、崩れた瓦礫の隙間を、覗き込むこともあった。
壊された部分の壁からは、まだ焦げた臭いが僅かに漂っていた。
施設そのものは、すでに調律省の管理下に戻され、再建の作業が進められていた。
晴は、警備の目を、慎重に避けながら、周辺を巡り続けた。
灯の匂いが、どこかに残っていないか。
何か、痕跡が、落ちていないか
――そんな、根拠のない望みに、晴はすがるようにして歩き続けていた。
だが、灯の手がかりは、どこにも見つからなかった。
――いない、はずが、ない。
そう、自分に、言い聞かせながらも、晴の足はその場所へと、日々向かってしまうのだった。
日が沈み、あたりが暗くなり始める頃、晴は決まって、重い足取りで集落への長い山道を、引き返した。
その背中には、日ごとに、疲労が色濃く、積み重なっていくようだった。
一方、東部の情勢は、なお、緊迫していた。
支局本部からは、次々と、新たな人員が投入されていた。
討伐隊の増員、施設の再建、周辺の警戒
――東部一帯に、調律省の存在感が、これまでにないほど、色濃く示されていた。
宿場町にも、見慣れぬ制服姿の職員たちが、頻繁に出入りするようになっていた。
街道には、荷を積んだ車両が、絶え間なく行き交い、以前とは比べ物にならないほどの、物々しさが、あたりを包んでいた。
翔たちの集落も、その動きに警戒を緩めることはできなかった。
斥候に出た者たちが、頻繁に、討伐隊の動きを報告に戻ってくる。
小競り合いは、あちこちで断続的に続いていた。
時には、夜討ちを仕掛けられ、慌てて応戦することもあった。
地下集落もまた、慌ただしい緊張の中にあった。
負傷者の手当て、施設からの避難者たちの生活の立て直し。
作業場では、新たに加わった住人たちのための寝床や、衣類の手配が、休みなく進められていた。誰もが、休む間もなく動き続けていた。
そんな慌ただしい日々の中でも、翔は六花のもとへ、毎日通い続けていた。
集落の代表としての務めをこなしながら、翔は寸暇を惜しんで、六花の傍らに時間を割いていた。
水を含ませた布で額を拭う。
髪をそっと整える。
食事を口元に運んでやる。
反応のない六花に、それでも翔は、変わらず話しかけ続けていた。
「――今日も忙しかったよ。お前がいれば、また第三部 第一章 第五話「木の人形」色々手伝ってくれたんだろうな」
そう、笑いかけながらも、翔の目には、隠しきれない疲労の色が滲んでいた。
ある日の夜、翔は木の切れ端を手に取った。
かつて幼い六花に作ってやった、あの不格好な人形。
その記憶を頼りに、翔は慣れない手つきで、小刀を動かし始めた。
昔よりはましだが、器用とは言い難い、その出来栄え。
歪んだ輪郭、左右非対称の腕。
それでも、翔は根気強く、木を削り続けた。
ようやく完成した人形を、翔は六花の枕元にそっと置いた。
「――下手くそで、悪いな。昔と変わらず」
翔が、その人形を、そっと六花の手に握らせた、その時だった。
六花の指先が、微かに動いた。
翔は思わず息を呑んだ。
六花の指が、その不格好な人形の輪郭を、ゆっくりとなぞっている。
虚ろだったその瞳に、僅かながら、光のようなものが宿り始めていた。
「――六花?」
翔の声に、六花の唇が、僅かに震えた。
声にならない、震え。
それがやがて、微かな、掠れた声へと変わっていった。
「――お、にい……ちゃん」
その一言に、翔は、言葉を失った。
これまで、堪えてきたはずの、感情が堰を切ったように溢れ出した。
翔は、六花の手を両手で包み込むようにして握りしめた。
震える肩を、抑えることもできなかった。
「――六花、六花、俺が、わかるか?」
六花は、まだ、はっきりとした反応を見せてはいなかった。
だが、確かにその口から、「お兄ちゃん」という、あの懐かしい言葉がこぼれ落ちたのだった。
翔の目から、涙が止めどなく溢れ出した。
長年、待ち続けたその瞬間。
完全な帰還には、まだ、程遠いのかもしれない。それでも、翔にとって、これまでのすべての苦労が報われたかのような、確かな光だった。
窓のない部屋、ランプの灯りの下、翔は、六花の手を握りしめたまま、いつまでも涙を流し続けていた。




