第六十六話「遡る記憶」
――時は、少し、遡る。
東部の施設が、南部への移転を命じられた、あの会議の日。
窓のない、重厚な造りの会議室。
長い楕円形の机を囲んで、調律省の幹部たちが居並んでいた。
天井の灯りが、磨き上げられた机の表面に、鈍く反射していた。
忍がこの一連の報告を、無言のまま聞いていた、その場に、まだ語られていなかったもう一つの議題があった。
「――もう一点」
老幹部が、そう切り出したのは、討伐隊の増員と、天宮晴の身柄確保を指示した直後のことだった。
手にした書類の束を、僅かにめくりながらその職員は続けた。
「氷雨灯という、収容者についてだ」
その名に、忍の視線が、鋭く上がった。
会議室の空気が、僅かに変わった。
それまで、書類に目を落としていた何人かの幹部も、顔を上げ老幹部の方を見つめた。
「中枢卿様より、直々に指示が下りておる」
「――指示、というのは」
老幹部の言葉に、職員は緊張した面持ちで続けた。
喉が、僅かに上下する。
「氷雨灯については、一斉送還の対象から、外すように、とのことだ。反応の有無、収容期間に関わらず、彼女のみ、別途指定された場所へ、単独で輸送するように、と」
その言葉に、会議室が僅かにざわめいた。
誰かが、隣の者と小声で何かを囁き合っていた。
忍は机の下、膝の上で組んだ両手に、力を込めた。
爪が、掌に、深く食い込んだ。
表情には、努めて何も出さないようにしていたが、心臓はこれまでにない速さで脈打っていた。
「――指定された場所とは、どこでしょうか」
忍が、思わず口を挟んだ。
会議室の視線が、一斉に、忍へと集まる。
老幹部は、僅かに、片眉を上げた。
「わしも詳細までは聞かされていない」
老幹部は、静かに答えた。
その口調には、これ以上、深入りするつもりはない、という暗黙の意思が滲んでいた。
「中枢卿様が、直接、興味をお持ちになったということだけは確かだ。理由についても、こちらには、一切知らされていない」
「――なぜ、その一人にだけ」
忍の問いに、老幹部はそれ以上答えようとはしなかった。
指先で、机を、一度、軽く、叩く。
「理由を、詮索するな。中枢卿様のご意向だ。我々は、ただ、実行するのみだ」
その一言で、話は打ち切られた。
忍は、それ以上、何も言えなかった。
だが、内心では、これまでにない、激しい動揺が渦を巻いていた。
喉の奥が、乾いていくのを、忍は自覚していた。
「――輸送の手配は、いつまでに」
別の幹部が、事務的に尋ねた。
その声には、他の議題と何ら変わらない、平坦な響きしかなかった。
「すでに、進めておる。一斉送還の実行に先立ち、氷雨灯だけは、先んじて、移送を完了させる」
その報告に、忍は、僅かに目を見開いた。
先んじて、移送を完了させる
――つまり、一斉送還が、実行される、その時には、すでに氷雨灯は、施から姿を消しているということだった。
忍の脳裏に、これまで意識的に遠ざけてきた、ある考えが、再び浮かび上がった。
氷雨灯。東雲と氷雨の血。
そして、中枢卿という、あまりにも遠い存在。
地図に打たれた、東部の小さな印が、忍の視界の端に、絶えずちらついていた。
――なぜ、あの子だけに、これほどの関心を。
その問いに、忍自身、まだ明確な答えを見出せずにいた。
会議は、それから他の議題へと、淡々と移っていった。
だが、忍の意識は、もう、そこにはなかった。
会議室を出た後も、忍の頭からは、その一件が離れなかった。
廊下を歩く足取りが、いつもより、僅かに重かった。
氷雨灯は、一斉送還の対象からも外れ、東部の施設から、すでにどこかへと移送されている。
それは、つまり
――たとえ、誰かが、あの施設を、襲撃し、収容者たちを、救い出したとしても。
その中に、氷雨灯だけは、いない、ということを意味していた。
忍は、廊下の窓の前で、足を止めた。
窓の外、東部の方角の空を、しばらくの間、ただ、静かに見つめ続けていた。
ガラス越しの光が、忍の横顔を、薄く照らしている。
もし、天宮晴が、あの施設へと、向かっているのだとすれば
――彼が、そこで、目にすることになるのは、灯のいない、ただの、空虚な光景だけだった。
忍は、その光景を、脳裏に思い描きながら、拳を、そっと握りしめ、極秘に旧友へ手紙を送った。




