第六十五話「いない」
「――翔!しっかりしろ!!」
仲間の一人が、翔の肩を強く掴んだ。
その声に、翔ははっと、我に返った。
呆然と、六花を見つめたまま、動けずにいた自分に気づく。
周囲では、なおも逃げ惑う人々の悲鳴と、駆け回る足音が、絶え間なく響いていた。
「――時間が、ない。連れて行くぞ」
翔は、奥歯を噛み締めた。
六花を、そっと抱き上げる。
軽すぎる、その体重に、翔の胸が鋭く痛んだ。
かつては、翔の背中を、勢いよく叩いてくるほど元気だったはずの体。
それが、今はまるで、空気を抱えているかのように頼りなかった。
それでも、今は、この痛みに浸っている暇はなかった。
「――全員、避難させろ!出口へ急げ!!」
翔の号令が、広間に響いた。
班の者たちが、一斉に動き出す。
広間から、通路へとなだれ込んだ、収容者たちの群れ。
だがその先には、増援の警備兵たちが、すでに待ち構えていた。
灰色の制服が、通路いっぱいに、壁のように並んでいる。
「――止まれ!それ以上、進むな!!」
警備兵たちが、一斉に武器を構える。
翔の仲間たちが、その前に、素早く立ちはだかった。
「――道を開けろ!!」
叫びと共に、乱闘が始まった。
棒を振るう警備兵に、素手で飛びかかる者。
奪った得物を、振り回しながら、活路を切り開く者。怒号と、悲鳴と、金属のぶつかる音とが、狭い通路に、絶え間なく反響していた。
誰かの流した血が、コンクリートの床に黒く飛び散っていた。
「――こっちだ、来い!」
一人が、収容者たちを、脇道へと誘導する。
だが、そこにも、別の警備兵が待ち伏せていた。
「――くそ、キリがねえ!」
誰かが、そう吐き捨てた。
それでも、誰一人として足を止めなかった。
倒れた仲間を助け起こす者。
子供を、背負って走る者。血を流しながらも、なお、前へ進もうとする者。
それぞれの、決死の想いが、その一つ一つの動きに宿っていた。
翔は、六花を、片腕に抱えたまま、もう片方の手で、迫りくる警備兵の攻撃を受け止め、弾き返した。
反撃の隙に、鳩尾へ鋭い一撃を叩き込む。
警備兵が、崩れ落ちるのを確認する間もなく、翔は、次の敵へと視線を移した。
腕にかかる六花の重みが、翔の動きを、僅かに鈍らせていたが、それでも翔は決してその腕を緩めなかった。
資材搬入用の裏門まで、あと僅かという場所で、一団は、最後の激しい抵抗に遭遇した。
「――ここを、通すわけには、いかん!」
数にして、十人近い、警備兵の集団が通路を塞いでいた。
松明のような灯りが、彼らの緊張した顔を赤々と照らしている。
翔たちの、消耗も激しかった。
息を切らし、傷を負いながらも、それでも退くという選択肢は、誰の頭にもなかった。
「――押し通る!一気に、突っ切るぞ!」
翔の号令に、残る力を振り絞り、一団が突撃した。
乱れ飛ぶ、怒声。
ぶつかり合う、体と体。
押し合い、揉み合いながら、一人、また一人と、警備兵たちの壁を突破していく。
誰かが、叫びながら、警備兵の懐に飛び込んでいった。
ようやく裏門を抜けた時には、一団の誰もが満身創痍だった。
切れた唇、腫れた頬、破れた衣服
――それでも、多くの収容者を、無事に、外へと、連れ出すことに成功していた。
夜風が、汗ばんだ肌に、冷たく吹き付けた。
外に出ると、そこには翔たちが、以前鹵獲していた、調律省の専用車両が待機していた。
真鍮のランプが、薄暗く車体を照らしている。
仲間たちが、次々と、救出した収容者たちを、その荷台へと乗せていく。
泣きじゃくる子供、放心したまま、動けずにいる大人――それぞれを、支えながら、一人、また一人と、車両に押し込んでいった。
「――早く、乗れ!すぐに、追っ手が来る!!」
怒鳴るような、指示が飛び交う中、翔も、六花をそっと車両の中に座らせた。
反応のない、その横顔をもう一度見つめる。
だが、今は感傷に浸っている時間はなかった。
大半が、車両に、乗り込んだのを確認した翔は、ふと、辺りを見回した。
荷台に並ぶ顔、顔、顔――そのどれもが、必死に、この場を、生き延びてきた者たちの顔だった。
だが、その中に、探している顔だけが、見当たらなかった。
「――晴は」
その姿が、見当たらなかった。
翔の胸に、嫌な予感が、じわりと広がった。
しばらくして、施設の奥から一人の人影が、よろめくように駆けてくるのが見えた。
月明かりに、その輪郭が浮かび上がる。
「――晴!」
翔が、駆け寄った。
晴は、肩で、激しく息をしていた。全身が、汗と埃にまみれている。
だが、その様子はこれまでとは明らかに違っていた。顔面は、蒼白で、目には焦点が、うまく合っていない。
まるで、魂の抜け落ちたような表情だった。
足元も、僅かにふらついていた。
「――どうした。女は」
翔の問いに、晴は、答えなかった。
ただ、震える唇を、僅かに動かすだけだった。
声にならない、掠れた息だけが漏れていた。
「――女は!?一緒じゃ、ないのか!?」
翔が、声を荒げた。
晴の肩を、両手で強く掴む。
晴は、ようやく、絞り出すように言葉を発した。
虚ろな目に、僅かに涙が滲んでいた。
「――いない」
その一言が、晴の口からこぼれ落ちた。
乾いた声だった。
「灯が……いないんです」
その言葉が、夜の闇に、静かに溶けていった。
荷台に乗り込んだ人々の、安堵と混乱の入り混じったざわめきすら、この瞬間、翔の耳には遠く感じられていた。




