第六十四話「あの日の約束」
俺と六花は、血の繋がらない兄妹だった。
俺が、まだ十三だった頃、流行り病が俺の両親の命を相次いで奪った。
身寄りのなくなった俺を、六花の家族が、迷わず引き取ってくれた。
父親同士が気の良い仕事仲間だった。
六花の家は、決して裕福ではなかった。
父親は、日雇いの力仕事で生計を立て、母親は、近所の家々の繕い物を請け負って、僅かな稼ぎを、家計に足していた。
狭い家に、家族が一人増える。
それでも六花の両親は、迷うことなく、俺を家族として迎え入れてくれた。
「――今日から、あなたもこの家の子よ」
六花の母親が、そう言って、俺の頭を優しく撫でてくれた。
あの日のことを、今も鮮明に覚えている。
六花は、俺よりも、七つ年下だった。
最初は見知らぬ俺を、警戒するように部屋の隅から、じっと、遠巻きに見ていた。
だが、俺が庭先で木の枝を削り、不格好な人形を作ってやると、六花は恐る恐る近づいてきた。
「――これ、私にくれるの?」
小さな手で、その人形を、大事そうに受け取った。
それからというもの、六花はすっかり懐くようになっていった。
「――お兄ちゃん、お兄ちゃん」
舌足らずな声でそう呼びながら、六花はいつも俺の後を追いかけ回していた。
俺が川で釣りをすれば、その隣にちょこんと座り込み、俺が木登りをすれば、下から心配そうに見上げている。
うるさいと思うことも多かった。
だが、その存在は俺にとって、失った家族の穴を、少しずつ埋めてくれる、かけがえのないものだった。
俺が十五の歳の頃、今度は六花の父親が、流行り病で命を落とした。
その報せを受けた日、六花は家の中で一人、泣き崩れていた。
小さな体を、丸めるようにしてしゃくり上げるその背中。
俺は、傍らで、ただその小さな背中をさすってやることしかできなかった。
何と声をかければいいのか、わからなかった。
自分自身も、両親を同じように失った経験があったからこそ、なおさら言葉が出てこなかった。
「――お父さん、もう、いないの?」
六花の、その問いに俺は答えることができなかった。ただ、六花の体を、そっと抱きしめた。
その時、六花の頭上には、これまで見たことのないほど、激しい悲しみの雨が降り注いでいた。
灰色の雲が、家の周りだけ、渦を巻くように立ち込めていたのを、覚えている。
――だが、まだ、施設に感知されるほどの、規模ではなかった。
運命が大きく変わったのは、それから数年後のことだった。
六花も十一となり、貧しいながらも学校に通って友達と楽しく過ごす毎日を送っていた。
俺は学校には行っていなかった。
少しでも家計の助けになろうと、街に出稼ぎに行っていた。
六花の母親は女手一つで家計を支えるようになり、夜の飲み屋で働くようになっていた。
そんなある夜の日だ。俺は出稼ぎに行っていて家にいなかった。
酒に酔った近所のならず者が、家に押し入ってきた。以前から、母親にしつこく言い寄っていた男だった。
「――いい加減、俺の女になれよ」
男はそう言いながら、母親の腕を、乱暴に掴んだ。
振り払おうとする母親に、男が拳を振り上げようとした、その瞬間――六花が、二人の間に割って入った。
「――お母さんに、触るな!」
まだ幼い体で、六花は男に、体当たりをしていた。
男がよろめき、六花を突き飛ばし、馬乗りになった。例え酔っていたとしても男性の力には敵わない。
「そうか、お前が相手にしてくれるのか?」
男は六花の衣服を剥いだ。
「い、いやぁああああ!!!!」その叫びと共に、これまで抑え込まれていたはずの、六花の激しい感情が一気に噴き出した。
空が、瞬く間に、暗く染まった。
轟音と共に、局地的な激しい雷雨が、街を襲い始める。
屋根を叩く、雨粒の音。
窓ガラスを、揺らすほどの雷鳴。近隣の住人たちが、悲鳴を上げながら、家々から、飛び出してくる。
俺が出稼ぎからの帰路、その空の様子を、今も、はっきりと覚えている。
その規模は、これまでのどの反応よりも、遥かに大きかった。
近隣一帯を、巻き込むほどの異常気象。
それは、調律省の観測網に、明確に引っかかるものだった。
その日の夜、調律省の職員たちが、六花の家に押しかけてきた。
制服姿の男たちが、家の中に、ずかずかと踏み込んでくる。
翔は、必死に、六花を庇おうとした。
小さな体で、六花の前に立ちはだかった。
「――やめろ!六花に、触るな!!」
だが、非力な少年の抵抗など、彼らにとっては、何の障害にもならなかった。
あっさりと、突き飛ばされ、俺は床に倒れ込んだ。
「――六花!」
叫びも、虚しく、六花は職員たちに、両腕を掴まれ連れ去られていった。
母親を守ろうとした、その優しさが、皮肉にも六花自身の運命を、決定的に変えてしまった。
連れ去られる、その瞬間――六花は、振り返り、俺に向かって、必死に手を伸ばした。
指先が、空を切る。その小さな手が、届くことはなかった。
「――お兄ちゃん!助けて、お兄ちゃん!!」
その声は、今も、俺の耳の奥に消えることなくこびりついている。
玄関先に響いた、六花の悲鳴。
それを最後に、扉は、無情に閉ざされた。
「――必ず、助けに行く」
俺は、遠ざかっていく、調律省の車両を追いかけながら、そう誓った。
膝から崩れ落ち、地面に、拳を叩きつけながら。
声にならない、その誓いを、俺は、これまでの年月、片時も忘れたことがなかった。
六花のいなくなった家は、静かすぎるほど静まり返っていた。
母親はそれから、まともに食事も喉を通らなくなっていった。日
に日に、痩せ細っていく母親の姿を、俺は、ただ、見守ることしかできなかった。
「――あの子を、返して……」
母親は、譫言のように、繰り返しそう呟いていた。
そして、心労がたたり、六花が連れ去られてから、一年と経たずに、静かに息を引き取った。
残された俺には、もう何もなかった。
狭い家に、一人。
空腹を満たすため、あちこちで日雇いの仕事をこなしながら、俺は、ただ六花を、必ず取り戻すという、その一念だけを支えに生き延びていた。
その一念が、俺を東部の山へと導いた。
街の片隅で、噂に聞いた話だった。
この国の非道な仕組みに、家族を奪われた者たちが、山奥に身を潜め密かに抵抗を続けているという。
俺は迷わず、その噂を頼りに山道を登った。
何日も、野宿を重ね、飢えと寒さに耐えながら。
そこで俺を迎え入れてくれたのが、重蔵――「親父」だった。
まだ、あどけなさの残る、痩せこけた俺を見て、重蔵は、しばらく無言のまま見つめていた。
「――お前、一人で、ここまで来たのか」
その問いに、俺はこれまでの経緯を訥々と語った。
六花のこと、母親の死、そして必ず迎えに行くという誓い。
重蔵は、その話を最後まで黙って聞いていた。
「――お前のような、想いを持つ者は、ここには大勢いる」
重蔵は、そう言うと、俺の頭に大きな手をそっと乗せた。
その手の温もりに、これまでの、孤独な戦いに初めて、寄り添ってくれる存在を見つけた気がした。
それから、俺はこの地で、力をつけていった。
戦い方を学び、集落の仕組みを学び、やがて、集落の中心的な存在へと成長していった。
失うものは何もない。すべては、六花を連れ戻しに行くための、道のりだった。
目の前の、六花をもう一度、見つめた。
あの日、必死に手を伸ばしてきた、幼い六花の姿と、今、目の前にいる虚ろな瞳の六花とが、翔の中で、重なり合っては離れなかった。
差し出した手の先に、あの日と同じように、六花がいる。だが、その手を握り返してくれることは、ない。
「――遅く、なって、すまなかった」
翔の声は、これまでにないほど、震えていた。
約束は、果たされた。
だが、その約束が、これほどまでに残酷な形で実を結ぶとは、あの日の翔は、想像すらしていなかった。




