第六十三話「翔の戦い」
警笛の音が鳴り響く中、翔は、自分の班を率い、集団棟へと続く通路を、駆け抜けていた。
背後から、複数の足音が追ってくる。
警備の増援が、動き始めているのは明らかだった。
翔は、歯を食いしばりながら、なおも足を、速めた。息が、喉の奥で、荒く鳴っていた。
「――急げ!気づかれる前に中に入るぞ!」
翔の号令に、班の面々が次々と頷いた。
誰もが、この日のために準備を重ねてきた者たちだった。
恐れよりも、強い決意が、それぞれの表情に滲んでいた。
施設の外周では、別動隊がすでに動き出していた。
外壁沿いに配置された警備兵たちを、静かに、次々と無力化していく。
灯りを落とした通用口、資材搬入路
――脱出のための動線が、着実に確保されていった。
「――こっちは、抑えた!集団棟から出た奴らを、この道に誘導しろ!」
外壁の陰、一人の男が、そう仲間に伝えていた。
彼らの動きには、無駄がなかった。
これまで、幾度となく、輸送班を襲撃してきた経験が、その連携の中に確かに活きていた。
集団棟の入り口、頑丈な扉の前には、警備兵が二人立っていた。
翔は、一瞬も躊躇わなかった。
「――かかれ!!」
その号令と共に、班の者たちが、一斉に飛びかかった。
警備兵たちは、突然の襲撃に対応しきれず、あっという間に制圧された。
翔自身も、一人の警備兵を、素早く組み伏せた。
抵抗する体を、力任せに押さえ込む。
「――すまんな。恨むなら、この国を恨め」
翔は、そう、低く呟いた。
それから、拘束具で、その手足を素早く縛り上げた。
扉をこじ開けると、その先には、広間が広がっていた。
灰色がかった白い貫頭衣を纏った、大勢の収容者たちが、突然の物音に身を強張らせ、こちらを見つめていた。
「――俺たちは、お前たちを助けに来た!
翔は、声を張り上げた。
「ここから、一緒に逃げるぞ!抵抗する気力のある奴は手を貸してくれ!!」
その言葉に、広間が大きくざわめいた。
大人たちの反応は、早かった。
誰かが、状況を、瞬時に飲み込んだかと思うと、次の瞬間には、我先にと出口へと殺到し始めていた。
長年、この場所で絶望を味わい尽くしてきた者たちだからこそ、この機を逃すまいとする、切実な必死さがその動きに滲んでいた。
倒れた者を助け起こす者、互いに支え合いながら走る者――その一つ一つの動きが、生きるための、強い意志を物語っていた。
だが、その一方で、小学生ほどの年頃の子供たちは、事態をうまく飲み込めていないようだった。
大人たちの、あまりの剣幕に、戸惑い立ち尽くしたまま、互いに身を寄せ合っている。
「――逃げるって、どこに」
「怖いよ……」
その、あどけない声に、翔の胸が、僅かに締め付けられた。
班の一人が、すぐさま、その子供たちの元へと、駆け寄り、優しく声をかけた。
「大丈夫だ。俺たちがちゃんと、外まで連れて行く。手を、繋いでいような」
その言葉に、子供たちは、僅かに安堵の色を見せた。震える小さな手が、差し出された大人の手を、しっかりと握り返していた。
翔は、その群衆の中に、必死に、視線を走らせていた。
捜しているのは、ただ一人
――六花の姿だった。
「――六花、いるか!六花!!」
翔の叫びに、何人かが振り返った。
だが、六花の姿は、なかなか見つからなかった。
焦りが、翔の胸に、じわじわと広がっていく。
人波をかき分けるたび、期待と、恐れが、同時に込み上げてきた。
――どこだ。どこにいる。
翔は、群衆をかき分けながら、奥へ、奥へと進んでいった。
連れて来られてから、もう長い年月が経つ。
あの頃、幼かった妹分は、今、どんな姿になっているのか
――翔の脳裏に、様々な想像が、駆け巡った。
逞しく育った姿を、思い描こうとする自分と、最悪の可能性を、拭いきれない自分とが、同時に、胸の内でせめぎ合っていた。
「――翔、こっちだ!」
班の一人が、広間の隅、壁際に座り込んでいた、一人の少女を指し示した。
翔は、その方向へ駆け寄った。心臓が、これまでとは、違う種類の速さで鼓動していた。
そこにいたのは、確かに六花だった。
記憶にある、あの顔立ち。
だが、その姿を見た瞬間、翔の足が、その場に、縫い付けられたように止まった。
六花は、周囲の混乱にも、何の反応も示さなかった。虚ろな目が、宙を、見つめたまま、微動だにしない。
逃げ惑う人々の悲鳴も、駆け回る足音も、その瞳には、何一つ映っていないようだった。
翔が、名を呼んでも、その目に光が宿ることはなかった。
「――六花」
翔は、震える足で、六花の前に跪いた。
震える手を、六花の頬に、そっと伸ばす。
その頬は、驚くほど冷たかった。
「――六花、俺だ。わかるか。翔だ」
返事は、なかった。
表情の一つも、動かなかった。
ただ、虚ろな瞳だけが、翔の顔を、通り過ぎるようにして、その先の、何もない虚空を見つめ続けていた。
「――嘘、だろ」
翔の声が、震えた。
長年、思い描いてきた再会は、これほどまでに、変わり果てた姿として、翔の前に突きつけられていた。
拳を、強く握りしめる。
爪が、掌に、深く、食い込んだ。
血が滲むほどの、強さだった。
周囲では、なおも、混乱と希望とが、入り混じった喧騒が続いていた。
子供たちが、大人たちに手を引かれ、次々と、出口へと、運ばれていく。
だが、翔の耳には、もう、その音すら、遠く感じられていた。
目の前の、変わり果てた六花の姿だけが、翔の世界のすべてを占めていた。




