第六十話「全員、卒業」
六花が、集団棟に戻ってきたのは、姿を消してから数日後のことだった。
灯は、その姿を見た瞬間、言葉を失った。
そこにいたのは、六花の体をした、誰かだった。
灯が知っている、六花ではなかった。
廊下の奥、職員に付き添われて歩いてくる足取り。
以前のような、だるそうな、けれど確かな意志を感じさせる歩き方ではなく、糸で操られる人形のような無機質な動きだった。
「――六花!」
灯は、駆け寄った。
だが、六花は、灯の呼びかけに何の反応も見せなかった。
虚ろな目が、灯を、通り過ぎるようにして、宙を見つめている。
瞳の奥には、以前あったはずの、濁った灰色がかった茶色の輝きすら、もう感じられなかった。
「――六花、私だよ。灯だよ」
灯は、六花の肩を、そっと揺すった。
その体は、軽く、そして驚くほど冷たかった。
だが、六花の表情は、一切動かなかった。
かつて、面倒くさそうに眉をひそめていた顔。不器用に、それでも、確かな優しさを滲ませていた声。
そのどちらも、今の六花からは、何一つ、感じ取ることができなかった。
着崩していたはずの貫頭衣も、今は几帳面なほど、綺麗に着付けられている。
片袖をまくり上げる、あの、投げやりな癖すら、もうそこには残っていなかった。
まるで精巧に作られた抜け殻。
あの日、伊織が見せた、あの、空虚な微笑みと、同じものが、今、六花の顔にも貼り付いていた。
灯は、その顔をまじまじと見つめながら、喉の奥から震えが込み上げてくるのを感じていた。
灯が六花の異変に言葉を失っていた、その時だった。
広間の壁際に設置された、放送用の装置から、耳障りな、甲高い音が響いた。
それに続いて、感情のこもらない職員の声が、施設全体に流れ始めた。
天井付近に取り付けられた、いくつもの拡声器から、同じ声が時間差を伴って幾重にも反響していた。
「――職員より、お知らせします」
その場にいたすべての収容者が、一斉に放送に、意識を向けた。
作業場でも、廊下でも、誰もが手を止め、天井を見上げていた。
「本日をもって、当施設の収容者全員を、"卒業"とする方針が決定しました。速やかに手続きを進めます」
その瞬間、広間の空気が、大きく二つに分かれた。
「――卒業だって!」
「やったあ!!ここから、出られるんだ!」
小学生ほどの年頃の子供たちが、目を輝かせ、歓声を上げた。
互いに、手を取り合い、飛び跳ねる者もいた。
一人の男の子が、隣の女の子と、両手を合わせて、くるくると回り始めた。
無邪気な喜びの声が、広間に、次々と広がっていく。
その明るい声だけが、場違いなほど、屈託なく響き渡っていた。
だが、その一方で
年長の収容者たちの顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。誰かが、両手で顔を覆った。
誰かが、力なくその場に座り込んだ。
長机に突っ伏し、肩を震わせる者もいた。
誰も、声を上げなかった。
ただ、絶望だけが、その表情に、色濃く滲んでいた。
子供たちの歓声と、大人たちの沈黙――その二つが、同じ空間に、あまりにも不釣り合いなまま同居していた。
灯は、震える体を抑えながら、傍らに立つ六花を見た。
六花は、その放送を聞いても、何の反応も示さなかった。
喜ぶでもなく、怯えるでもなく、ただ虚ろな目を、宙に向けたまま。
かつて、あれほど鮮やかに感情を映していたはずのその顔は、今、完全な静寂に包まれていた。
周りで巻き起こる喜びの声も、絶望の嗚咽も、まるで、六花には届いていないかのようだった。
――もう、手遅れなんだ。
その事実が、灯の胸に、鋭く突き刺さった。
六花は、もう、この放送の意味すら理解できていないのかもしれなかった。
灯は、六花の顔を、もう一度まじまじと見つめた。あの、繕い物を教えてくれた時の、真剣な眼差し。
「別に」と言いながら、それでも面倒を見てくれた、あの声。
それらすべてが、目の前から綺麗に消え去っていた。
「――なお、本日より通常の作業はすべて廃止とします」
放送は、なおも続いていた。淡々とした、抑揚のない声が、施設全体に響き渡る。
「今後は、朝・昼・晩の食事と、施術のみを、行います。全収容者が、"卒業"を迎えるまでの、最終手順となります」
その言葉に、灯は、これまでにない深い恐怖を覚えた。作業の廃止。
それは、この施設における、日常そのものが、終わりを告げたことを意味していた。
残されているのは、ただ、"完成"に向けた最後の時間だけ。
もう、繕い物をすることも、六花と隣り合って座ることも、二度とないのかもしれない。
放送が終わると、職員たちが、無言のまま、収容者たちを整列させ始めた。
今後の説明が、機械的に繰り返されていく。
灯は、その光景を、ただ呆然と見つめていた。
灯は、六花の手を、そっと握った。
冷たく、そしてこれまでのような確かな握り返しは返ってこなかった。
指の一本一本が、まるで意思を持たない人形の指のようだった。
窓のない広間、天井の照明だけがいつもと変わらず、無機質な光を放ち続けていた。
灯の頭上に、もし、この部屋で天候が見えたなら、それはこれまでのどんな色よりも、深く、暗い色をしていたに違いなかった。
灯は、六花の手を握ったまま、いつまでもその場に立ち尽くしていた。




