第五十九話「不穏な胸騒ぎ」
その日、支局内は、朝からいつもと違う、慌ただしさに包まれていた。
職員たちが、忙しなく廊下を行き来し、あちこちで、緊張した声のやり取りが聞こえてくる。
書類の束を抱えた職員が、小走りに廊下駆け抜けていく。
普段は、静かに保たれている執務室にも、落ち着かない空気が満ちていた。
玲は、その空気に違和感を覚えながらも、詳しい事情までは掴めずにいた。
上層部からの、何らかの指示が下りているらしいことだけは、断片的な会話から察せられた。
「――上の方針で、かなりの人数が、動かされるらしい」
すれ違いざま、そんな囁き声が、玲の耳に届いた。
声の主は、すぐに人混みに紛れて、見えなくなった。
玲は、思わず足を止めかけたが、今はそれを深く探る余裕がなかった。
手元の業務を片付けることだけで、その日は精一杯だった。
その日の勤務を終えた後、玲は、いつものように、環の家へと足を向けた。
晴との約束――環の様子を、見ていてほしいというあの頼み。
それを、玲はこれまで忠実に守り続けていた。
夕暮れの光が、七番区の煉瓦色の家並みを橙色に染めていた。
灯の家の前に立ち、呼び鈴を鳴らす。
だが、いつまで経っても応答がなかった。
玲は、もう一度呼び鈴を鳴らした。
それでも、家の中からは物音一つ聞こえてこない。
玲は、僅かな胸騒ぎを覚え、扉にそっと手をかけた。鍵は、かかっていなかった。
その事実自体が、玲の中の不安を、さらに強めた。
「――環さん?入りますよ」
居間に足を踏み入れた瞬間、玲は息を呑んだ。
環が、床に倒れていた。
「――環さん!」
玲は、駆け寄り、環の体を抱き起こした。
額に手を当てる。
燃えるような、高い熱が伝わってきた。
顔色は、青白く、額には、玉のような汗が幾つも浮かんでいた。
倒れた拍子に、落としたのだろう、茶碗の欠片が、床に散らばっていた。
「――環さん、聞こえますか」
環は、うっすらと目を開けた。
だが、焦点が定まっていなかった。譫言のように、小さく、何かを呟いている。
「――灯……灯」
その名前だけが、辛うじて聞き取れた。
玲の背筋に、冷たいものが走った。
玲は、すぐさま、環を寝室へと運んだ。
決して、軽くはない体を支えながら、慎重に、寝台へと横たえる。
息を切らしながら、玲は環の体を、丁寧に、布団に包んだ。
水を汲み、布を濡らし、環の額にそっと乗せた。
台所を借り、桶に水を張る間も、玲の手は僅かに震えていた。
荒い息遣いが、静かな部屋に、断続的に響いていた。
「――少し、待っていてください。今、楽にしますから」
玲は、そう囁きながら、手早く、環の着物の衿元を緩めた。
汗で、湿った髪を、そっと払いのける。
環の顔は、これまで、晴から聞いていた印象よりも、遥かにやつれていた。
頬が痩け、目の下には、深い隈が刻まれている。
しばらくすると、環の呼吸が少しずつ落ち着き始めた。
玲は、寝台の脇に、椅子を引き寄せ、腰を下ろした。
窓の外は、すっかり、日が暮れていた。
環が、再び目を開けた。
今度は、僅かながら、焦点が合っているようだった。
「――ここ、は」
「環さんの家です。倒れているところを見つけました」
環は、しばらくぼんやりと玲の顔を見つめていた。
それからゆっくりと、状況を思い出したように、目を伏せた。
「――ごめんなさい、ね。ご迷惑を」
「気にしないでください。それより、何か、心当たりは。最近、体調が優れなかったんですか」
環は、答えるまでにしばらくの間を置いた。
指先が、布団の端を、弱々しく握りしめていた。
「――灯のことを、考えると、眠れなくて」
環の声は、弱々しかった。
「あの子が、あの施設で、どんな思いをしているのか。想像するだけで、胸が押し潰されそうになる」
玲は、その言葉に、何も言い返すことができなかった。
ただ、環の手を、そっと握った。
骨ばった、冷たい手だった。
指先の皮膚には、長年の家事で、刻まれたのだろう、細かな皺が、幾つも見て取れた。
「――大丈夫です。晴が、必ず、灯を連れ戻します」
その言葉が、どれだけの確証を持つものなのか、玲自身にもわからなかった。
それでも、今、環にかけられる言葉はそれしかなかった。
環は、玲の手を、弱々しく握り返した。
「――ありがとう、玲さん」
その声には、僅かながら、安堵の色が滲んでいた。
玲は、水を含ませた布を、もう一度絞り直し、環の額にそっと乗せ直した。
窓の外、夜が静かに更けていった。
虫の音だけが、遠く響いている。
玲は、その夜、環の傍らで朝まで寄り添い続けることを静かに決めていた。




