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空が壊れるほどの恋だった  作者: Kakou
【第二部】第三章
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第五十六話「いない夜」

その日の朝、灯が目を覚ますと、隣の寝台はもぬけの殻だった。


いつもなら、規則正しい起床の合図と共に、六花が、眠そうな顔で身を起こしている頃だった。

だらしなく丸まった布団から、寝癖のついた頭を覗かせ、面倒くさそうに欠伸をする

――それが、いつもの、朝の光景だった。

だが、その日に限って、六花の姿はどこにも見当たらなかった。


灯は、しばらくの間、寝ぼけた頭のまま辺りを見回した。

六花の使っている枕、畳まれた毛布――それらは、いつもと変わらず、そこにあった。

ただ、本人だけがいない。灯は、寝台から身を起こし、六花の寝床にそっと手を触れてみた。

すでに、体温の名残すら感じられなかった。


朝食の時間になっても、六花は現れなかった。

灯は、落ち着かない気持ちを抱えたまま、いつもの席に、一人で座っていた。

粗末なパンと、薄いスープ。

それを、味もわからないまま、機械的に口に運ぶ。


「――六花、見てない?」


近くにいた、収容者に尋ねてみた。

だが、誰もはっきりとした答えを持っていなかった。


「さあ。昨日の夜は、いたと思うけど」


その、曖昧な返答に、灯の胸の中でじわじわと不安が膨らみ始めていた。

周囲のざわめきが、いつもより、遠く、他人事のように聞こえた。


作業場に向かう途中、灯は思い切って巡回中の職員に声をかけた。

廊下の角を曲がったところで、白い制服の背中を、見つけた瞬間、灯は足を速めた。


「――あの、六花さんが、いないんです。どこに、行ったんでしょうか」


職員は、手元の記録に目を落としたまま、素っ気なく答えた。

ページをめくる指先には、何の感情も宿っていなかった。


「――ああ、その者なら、体調不良だ。今は、静養中になっている」


「――静養、って。どこで」


「詳細は、答えられない」


職員は、それだけ言うと、灯の反応を待つことなく、その場を立ち去っていった。

灯は、廊下に一人、取り残されたまま、その後ろ姿をしばらくの間見つめ続けていた。

廊下の照明が、規則正しい間隔で、天井から白い光を落としていた。


――体調不良。静養中。


その言葉を、灯は、頭の中で何度も繰り返した。

だが、繰り返すほどに、その言葉の輪郭が曖昧に崩れていくような感覚があった。


これまで六花は、灯の前で体調を崩した素振りなど、一度も見せたことがなかった。食欲がない、と呟いたことすら記憶にない。

むしろ、誰よりも、この場所での過ごし方に慣れているように見えていた。

それなのに、突然、静養が必要になるほどの体調不良。


その説明に、灯は拭いきれない違和感を覚えていた。指先が、無意識に、貫頭衣の裾を、強く握りしめていた。


作業場に着いても、灯の手は、まったく動かなかった。

針を持つ手が、震え、糸は、何度も絡まった。

いつもなら、六花が、隣で、面倒くさそうに、指導してくれる場所。

「――下手くそ。貸して」という、あの、突き放すような。

それでいて優しい声。だが、今日はその隣がただ空いているだけだった。


長机に並んだ布と針の山が、いつもより色を失って見えた。

周囲の収容者たちの中にも、六花のことを気にかける様子の者は、ほとんどいなかった。

誰かが、いなくなること。

それは、この場所では、ごく、日常的な出来事の一つに過ぎないのかもしれなかった。


淡々と、繕い物を続ける手、手、手――その無関心さが、灯には、かえって恐ろしく感じられた。


だが、灯にとって、六花は、この白く感情を失っていく場所の中で、唯一、心を許せる存在だった。

その存在が、理由もわからないまま消えてしまったという事実が、灯の胸に、鋭く突き刺さっていた。


昼過ぎ、灯は、もう一度別の職員に尋ねてみた。

だが、返ってきたのは、同じ判で押したような答えだった。


「体調不良で、静養中だ。それ以上のことは、把握していない」


まるで、あらかじめ、用意された台詞をそのまま読み上げているかのような抑揚のなさだった。

灯は、それ以上、食い下がることができなかった。


誰に聞いても、同じ答えしか、返ってこない

――その事実自体が、灯の中で不気味な予感をいっそう膨らませていった。


その日の夕方、作業場からの帰り道、灯は六花と、いつも並んで歩いていた廊下を一人で歩いた。

その道のりが、これほどまでに、長く感じられたことは、これまで一度もなかった。


その日の夜、消灯前の施術の列に並びながら、灯は隣にあるはずの六花の姿がないことを改めて実感していた。

列の先頭から、一人、また一人と、額に器具を当てられていく。

その順番が、灯にも静かに近づいてきていた。


――大丈夫、だよね。


その問いかけに、答えてくれる者は、誰もいなかった。

灯は、施術のための器具が、額に当てられる、その冷たい感触を受けながら、消えることのない不安を、必死に押し殺していた。


金属の感触が、皮膚にじかに触れる。

意識が、僅かに、霞んでいくのを感じながらも、灯は、六花の名前だけを、頭の隅で繰り返し、呼び続けていた。


窓のない部屋、暗闇の中、灯は、いつまでも眠りにつくことができずにいた。

隣の寝台に、目を向ける。そこにあるはずの、六花の温もりは、やはりどこにもなかった。

六花が、無事に戻ってくることを、灯はただ祈り続けていた。


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