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空が壊れるほどの恋だった  作者: Kakou
【第二部】第三章
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第五十五話「悪魔の所業」

老人は、長い沈黙の後、ようやく顔を上げた。

その目には、深い、驚きの色が、まだ残っていた。

囲炉裏の炎に照らされたその顔は、いつもより幾分か老け込んで見えた。


「――洸、という男のことは、知らなかった」


その一言に、翔が、僅かに、眉を寄せた。


「――親父、知ってたのか。この、東雲と氷雨の話」


「一部は、な」


老人は記録を、膝の上に、そっと置いた。

その手つきには、長年この話を、心の奥に、秘め続けてきた者だけが持つ、重々しさがあった。


「なぜ、黒曜の夫婦が、これほどまでに悪辣な仕組みを作り上げたのか。わしは、長年、疑問に思っていた。だが……この、洸という男の話を読んで、ようやく、腑に落ちた気がする」


「――納得、できたんですか」


晴が、思わず問うと、老人は静かに、首を振った。

白髪の交じった眉が、僅かに下がる。


「いや。理由が、わかったところで許せるわけではない」


老人の声には、確かな、憤りが滲んでいた。

晴は、その言葉に僅かな違和感を覚えた。


「――夫婦、と、仰いましたが」


「ん?」


「俺が知っていたのは、研一という研究者と、洸という男、二人の話だけです。夫婦、というのは」


その問いに、老人はしばらく、晴の顔を見つめていた。値踏みするような、それでいて、これから語ることへの、覚悟を固めるような、複雑な視線だった。

それから、深く、息を吐いた。


「――お前は、まだ、知らんのか。研一の妻の話を」


「――妻」


「紬の、母親だ」


老人は、囲炉裏の炎を、じっと見つめながら語り始めた。

炎の揺らめきが、その皺の刻まれた顔に、複雑な陰影を落としていた。


「紬の母は、娘を喪った悲しみの中で、悪魔になった」


その一言に、晴は息を呑んだ。

土瓶から立ち上る、微かな湯気だけが、部屋の中で、静かに揺れていた。


「研一と、洸が作り上げようとしていた、あの仕組み。それには、莫大な金と、多くの技術者が、必要だった。だが、それを、どこから、調達したのか――お前の記録には、そこまでは、書かれていなかっただろう」


「――はい」


「その答えが、紬の母親だ」


「研一は、元々、研究者として、外国とも、繋がりを持っていた。紬の母は、その伝手を使い、さらなる資金を求めて、海外の、闇の世界の人間たちと、繋がり始めた」


老人の声は、低く、重かった。

翔は、腕を組んだまま、身動き一つせず、その話に耳を傾けていた。


「そして、綿密な計画の末――大事にならない、山深い、とある村に目をつけた」


「――村」


「外国から、人と、武器を仕入れた。そして、その村で――大虐殺と、拉致が行われた」


晴は言葉を失った。喉の奥が、からからに、渇いていくのを感じた。


「女と、子供が、攫われ、そのまま外国へと流された。それが……人身売買の、始まりだ」


「その村の、元の長は、その事件を辛うじて、生き延びた。すべてを、失った男だった。家族も、仲間も、村そのものも」


老人の目に、深い、悲しみの色が宿った。

視線が、一瞬、遠く、過去の何かを見つめるように揺れた。


「その男が――わしの師匠だ」


その言葉に、晴は、大きく目を見開いた。

囲炉裏の薪が、小さく爆ぜる音を立てた。


「――師匠は、それから、どうしたんですか」


「すぐに、何かをしたわけじゃない。悲劇の村は東部の山中にある。復讐心を忘れないまま、この地を拠点に、長い時をかけて、情報を集め、力を蓄えながら、復讐の機会をじっと待っていた」


老人は続けた。その声には、師匠の、長い忍耐の日々を、遠く、偲ぶような静かな響きがあった。


「その間に――黒曜は、その大きな資金源を元に、感情を制御し、天候に反映させる、あのシステムを完成させてしまった」


「師匠は、地下に、多くの人間が出入りするのを、長年見張り続けていた。工事の人夫、資材の運搬――そうした、僅かな痕跡から、この東部の地下に、何かがあると見当をつけていた」


「――それが、共鳴塔」


「最初は地下に何があるか、わからなかった。しかし、嫌でも感じる明らかな変化が訪れた。突然現れた頭上の天気…通達された設立者研一から発せられた調律省、その内容でこの国に村と同じ悲劇が起きることを想像するのは容易だった」


老人の目が懐かしい過去を泳いでいる。


「せめてこの東部の地を、と師匠は仲間たちと地下に乗り込んだ。そして、機能を止めた」


老人は、そこで一度言葉を切った。膝の上の記録を、指先でそっと撫でるように触れた。


「――では、この集落は」


「そうだ。あの、忌まわしい事件がなければ、生まれなかった場所だ。師匠が、長い年月をかけて、復讐の一つとして、成し遂げたことだ」


「――東部の地だけというのは」


「ああ。師匠が止められたのは、この東部の塔一つだけだ。塔はこの国に全部で五つある。東西南北と、中央塔だ。他の塔はいまだに機能している。それに、例え止めたとしても中央塔が機能している限り、稼働を完全に止めることはできない」


老人の声には、その無念さが、確かに滲んでいた。

拳を、膝の上で、僅かに握りしめる。


「"反遺伝子"と称して、合法的に、一定数の人間を、収容できる仕組み。感情を、完全に、無くすことができる、施術。そうして出来上がった人形を――今も、外国に、送り続けている」


「――それが」


「この山を越えた先にある、あの施設だ」


その言葉に、晴は、全身の血の気が引いていくのを感じた。

指先が、冷たくなっていく。

灯が、収容されている、あの施設。

そこで、行われていること

――それが、これほどまでに、深く、暗い、歴史の延長線上にあるとは思ってもみなかった。


「――知らなかった、のか」


老人が、晴の様子に、静かに問いかけた。


「はい。灯を、取り戻すことだけを考えていました。それに、調律士として働いている時もまさか人身売買に加担していたなんて、そんな……」


晴の声は震えていた。灯だけでなく、あの施設に収容されている、すべての者たちが、この途方もない、悪意の連鎖の犠牲者なのだという事実が、晴の胸に、重くのしかかった。


囲炉裏の炎が、静かに揺らめいていた。

三人の間に、重い沈黙が、長く、横たわっていた。

外では、まだ、集落の生活の音が、微かに聞こえていた。

子供たちの笑い声、誰かを呼ぶ声

――その、ありふれた日常の音が、今はただ、重く、晴の耳に響いていた。


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