第五十四話「親父」
「――着いてこい」
男は、そう言うと、集落の中を、ゆっくりと歩き始めた。
晴は、痛む頭を抱えながらも、その後に続いた。
一歩、踏み出すたびに、こめかみのあたりに、鈍い痛みが疼いた。
道すがら、すれ違う住人たちが、男に、気安く、声をかけてくる。
井戸端で洗い物をしていた女が、手を止め、笑いながら、声を投げた。
「――翔、また、外から拾ってきたのか」
「拾ってきたっていうか、まあ、そんなもんだ」
男――翔は、そう答えながら苦笑した。
晴は、その名を、初めて知った。
近くで遊んでいた子供たちが、翔を見つけると駆け寄ってきて、その足にじゃれつくようにまとわりついた。
翔は、慣れた手つきでその頭を軽く撫でてやった。
「――ここは、いつから、あるんですか」
晴が尋ねると、翔は、しばらく歩みを緩めた。
集落の中央、共鳴塔を見上げながら、記憶を辿るように目を細める。
「俺が生まれるより、ずっと前だ。俺を拾ってくれた親父――血の繋がりは、ないが――その、さらに上の代の人間が、ここを見つけて、掌握したらしい」
「――上の代、というのは」
「親父の、師匠みたいなもんだ。もう、随分前に、死んだがな。この共鳴塔を見つけて、機能を止めて、最初の拠り所を作ったのが、その人だ」
翔は、集落を見渡すように、視線を巡らせた。
天井近くに吊るされた、無数の灯りが点在する家々の輪郭を淡く浮かび上がらせていた。
「そこから、この集落を、ここまで大きくしたのは、親父の代だ。輸送班を襲う戦い方も、住人を増やす仕組みも、ほとんど、親父が一から作り上げた」
「――では、今は」
「親父は、もう歳だ。体もあまり丈夫じゃない。だから、今の代表は俺が任されてる」
翔の声には、その重責を静かに受け止めている、確かな覚悟が滲んでいた。
晴はその横顔にこれまでとは違う、一人の人間としての深みを感じ取っていた。
表情の端々に、若さに似合わない疲労のようなものが、刻まれているようにも見えた。
「お前のことを親父に、報告しなきゃならない」
翔は、そう言うと集落の奥、少し離れた場所に建つ他よりも一回り大きな、木造の家へと足を向けた。
他の家々よりも、幾分か年季の入った佇まい。
壁板の継ぎ目には、長年の補修の跡が幾重にも重なっていた。
家の中は、質素だが、丁寧に整えられていた。
壁際には使い込まれた道具や、古い書物が、整然と並べられている。
囲炉裏の前に、白髪の恰幅の良い老人が、静かに腰を下ろしている。
傍らには、湯気の立つ土瓶が置かれていた。
「――親父」
翔が、声をかけると、老人はゆっくりと顔を上げた。
深く刻まれた皺の奥、その目には長年この場所を守ってきた者だけが持つ、穏やかな、けれど鋭い光が宿っていた。
「――客人、か」
「ああ。山道で、捕まえた。元調律省の人間らしい」
老人の視線が、晴へと向けられた。
値踏みするような、それでいて、どこか懐かしむような複雑な眼差し。
晴はその視線をまっすぐに受け止めた。
「――これを、見てくれ」
翔は、懐から晴の記録を取り出し、老人の前に差し出した。
「東雲と氷雨の話、調律省の成り立ちの話。こいつが、持ってた」
老人は、その記録を受け取った。
皺の刻まれた指先が、紙の端に、そっと、触れる。
ページを、一枚、一枚、めくっていく。
その表情が、次第に、険しく、変わっていった。
囲炉裏の灯りに照らされたその横顔に、深い驚きとそれを上回る、何か別の感情が複雑に入り混じっていくのが、晴にも見て取れた。
「――これは」
老人の声が、僅かに、震えた。
晴は、その反応に、何か、これまでとは違う大きな意味が含まれていることを、直感的に感じ取っていた。
囲炉裏の炎が、静かに揺らめいていた。
薪が、時折小さく爆ぜる音を立てる以外、家の中には、重い沈黙だけが満ちていた。
老人は、しばらくの間、記録から目を離すことができずにいた。
翔もまた、その異様な反応に、僅かに眉を寄せていた。




