第五十三話「地下の集落」
「――記録は、預からせてもらう」
男はそう告げると、晴の返事を待つことなく、記録を懐にしまい込んだ。
晴は、思わず身を乗り出した。
「――待ってください、それは」
「今は、返せない。信用できるかどうか、まだ、見極めきれてない」
男の声には、有無を言わさない、確かな意志があった。晴は、それ以上食い下がることができなかった。悔しさを飲み込みながら、晴は、小さく頷いた。
指先が、無意識に空を掴むように動いた。
男は、晴の背後に回り、縛られていた縄を無造作に解いた。手首に鈍い痛みがじんわりと広がる。
縄の痕が、赤く、皮膚に刻まれていた。晴は痺れた腕をゆっくりと擦った。
血の巡りが戻るにつれ、指先にちくちくとした感覚が走った。
「――ついてこい。見せたいものがある」
男は、そう言うと小屋を出た。
晴は、痛む頭を抱えながら、その後を追った。
立ち上がった瞬間、軽い眩暈が視界を揺らした。
外に出ると、そこは、木々に囲まれた小さな集落の一角だった。
いくつかの木造の小屋が点在している。
屋根には、苔むした様子も見え、長い年月、ここで生活が営まれてきたことを物語っていた。
だが、男が向かった先はその集落の中心――地面に、ぽっかりと口を開けた、大きな穴だった。
穴の縁には、木製の柵が巡らされている。
中を覗き込むと、石を積んで作られた急な階段が、地下深くへと続いているのが見えた。
冷たい空気が、穴の奥からゆっくりと、吹き上げてくるのが肌で感じられた。
「――これは」
「来ればわかる」
男は、それだけ言うと迷いのない足取りで階段を下り始めた。
晴は、僅かな戸惑いを覚えながらもその後に続いた。
階段は、思っていたよりも遥かに長かった。
ひんやりとした空気が、下るにつれて次第に体を包んでいく。
壁面には、等間隔に、灯りが灯され、石造りの階段を淡く照らしていた。
踏みしめる石段の表面は、長年の使用で丸みを帯び滑らかになっていた。
晴は、その一段一段を慎重に下っていった。
時折、遠くから、水滴が落ちるような、微かな音が反響して聞こえてきた。
やがて、階段の先に、光が、広がった。
晴は、目を見開いた。
そこには、地下とは思えないほどの、広大な空間が、広がっていた。
天井は、高く、遠くまで見通せないほど。
無数の灯りが、天井近くに、まるで、星々のように、吊るされている。
そして、その空間の中央に――巨大な、塔のような構造物が、そびえ立っていた。
石とも金属ともつかない、異質な素材でできた、その塔。
表面には、複雑な紋様が、幾重にも、刻まれている。近づくにつれ、その紋様の一つ一つが、精緻な彫刻であることが、わかってきた。
だが、その塔からは、何の気配も感じられなかった。
まるで、深い眠りについているかのように、静まり返っていた。
「――これが」
「共鳴塔だ。感情波を、天候に変換する、あの、化け物じみたシステムの末端の一つだよ」
塔の周囲には、木造の家々が、まるでその塔を守るようにして建ち並んでいた。
煙突からは、細い煙が立ち上り、家々の間には、洗濯物が、風もないのに、緩やかに、揺れていた。
人々が、行き交い、子供たちが笑い声を上げながら、走り回っている。
その光景は、地上で晴が見てきたどの街の様子とも、違っていた。
誰もが、感情を、隠していなかった。
笑う者は、大きく笑い、時折、言い争う者たちの声も、遠慮なく、響いていた。
ある家の軒先では、老婆が涙を流しながら、誰かと抱き合っていた。
その涙にすら、誰も目を向けようとはしなかった。
それが、当たり前の光景であるかのように。
「――ここに、住んでいるのは」
「輸送班を襲って、救い出した奴らだ。それと、家族を、あの施設に、奪われた者たち」
男は、集落を見渡しながら続けた。
その目には、この場所への確かな愛着が、滲んでいるように見えた。
「この共鳴塔は、もう、機能していない。俺たちが壊した」
その言葉に、晴は息を呑んだ。
「――壊した、というのは」
「文字通りの意味だ。この国に、五つある共鳴塔のうち、俺たちが占拠して、機能を停止させたのは、ここだけだ。他の四つ――東西南北の残り三つと、中枢にあたる、中央のものは、今も、変わらず、動き続けている」
「――だから、国全体のシステムが、変わったわけじゃない。あくまで、ここだけの話だ」
男の声には、誇りと、それでも消えない、無力感のようなものが、入り混じっていた。
視線を、共鳴塔の頂に向けたまま、しばらく動かなかった。
「だが、ここでだけは、感情を隠さずに生きられる。誰も、俺たちの感情を監視しちゃいない。天候として、外に漏れ出すこともない。ここの空は、地上と、繋がっていないからな」
晴は、改めて天井を見上げた。
地下深く、光の届かないその先に、確かにこの場所だけの、独立した空間が広がっているようだった。
吊るされた無数の灯りが、まるで偽りの星空のように、揺らめいていた。
「――ここでなら、システムに、引っかからずに済む」
男の言葉に、晴はこれまでにない強い感慨を覚えていた。
この国のどこかに、こんな場所が存在していたことに。
そして、それを自らの手で成し遂げた者たちがいたことに。
子供たちの笑い声が、遠くから、また、響いてきた。
灯を助け出すための、思いがけない、大きな手がかりが、今、目の前に広がっていた。




