第四十八話 「東への道」
東部方面へと向かう乗合馬車は、これまで晴が乗ってきた、どの路線とも違っていた。
乗客の数は、少なかった。座席の半分近くが、空いたままになっている。
時折すれ違う旅人たちの表情にも、どこか、緊張の色が見て取れる。
足早に、俯きがちに歩く人々。すれ違いざま、こちらを一瞥する視線にも、どこか、余所者を警戒するような、硬さが滲んでいた。
御者は、道中、何度も、周囲を警戒するように、視線を巡らせていた。手綱を握る手にも、心なしか、力がこもっているように見えた。
「――物騒な話、聞いてるかい」
御者が、ぽつりと、そう漏らした。晴が、視線を向けると、御者は、手綱を握ったまま続けた。日に焼けた横顔に、深い皺が刻まれている。
「この先、しばらく行くと、賊がよく出る一帯がある。うちの馬車は、まだ、襲われたことはないが……油断は、できねえ」
「――賊、というのは」
「詳しいことは、俺にもわからねえ。ただ、ここ最近、急に、頻度が増えたって話だ。何か、狙いでもあるんだろうよ」
御者は、そう言うと、荷台に積んだ荷物を、ちらりと確認するように、振り返った。
晴は、その言葉を、静かに、胸の内に、刻み込んだ。玲から聞いた情報と、御者の話は符合していた。
馬車の窓から見える景色は、七番区や、氷雨家旧邸へと続く山道とは、また違う趣を見せていた。
なだらかな丘陵地帯が、どこまでも続き、その合間に、点在する集落の煙突から、細い煙が立ち上っている。畑には、これから収穫を迎えるのだろう作物が、規則正しく列をなしていた。だが、そこで働く人々の姿は、心なしか、少なかった。空の色も、これまでとは違って見えた。雲の流れが速く、時折、遠くの空に、複雑な形をした雲が、浮かんでは消えていく。灰色と、薄紫が入り混じった、名状しがたい色合いの雲だった。この一帯もまた、何らかの感情の影響を、色濃く受けているのかもしれなかった。
晴は、懐から、蒼一郎に託された記録の一部を取り出し、改めて目を通した。膝の上に広げたページを、馬車の揺れに合わせて、指先でそっと押さえる。東雲家と氷雨家の歴史、そして、この国そのものの成り立ち。灯を助け出すことは、単に、一人の少女を救うことだけでなく、この国の在り方そのものに、一石を投じる行為になるのかもしれない。その予感が、晴の中で、日に日に、確かなものへと変わっていた。
馬車は、小さな宿場町に立ち寄った。
町の中心には、古びた井戸があり、その周りに、いくつかの商店が軒を連ねている。人通りは少なく、どの店先にも、どこか、活気の乏しさが漂っていた。
御者は、申し訳なさそうな顔で言った。
「――すまねえが、ここまでだ」
「――どういうことですか」
「この先、賊の出没が、あまりにひどくてな。うちの馬車は、これより東には、もう、行かねえことになっている。安全が、確認できるまでは」
その言葉に、晴は、思わず、言葉を失った。ここまで、辿り着いた道のりが、まさか、こんな形で断たれることになるとは思ってもみなかった。
「――いつまで、ですか」
「わからねえ。ここいらの馬車屋は、みんな、同じだろうよ。悪いが、今夜は、この町で、宿を取るしかねえ」
御者は、それだけ言うと、馬を厩へと引いていった。晴は、その後ろ姿を、しばらく見送ることしかできなかった。
晴は、その町で旅の情報を集めることにした。
宿場の酒場は、薄暗く、煙草の匂いが、うっすらと漂っていた。
数人の客が、それぞれ、押し黙ったまま、酒を口に運んでいる。晴は、その中でも、地元の住人らしき、白髪の老人に、声をかけた。
「――東部の奥に、何か、大きな施設があると、聞いたことはありませんか」
老人は、しばらく、考え込むような顔をした後、声を、僅かに潜めた。周囲を、一度、窺うような仕草を見せる。
「――ああ、あるとも。名前は知らんが、国の施設だ。何をしているところかは、誰も、詳しくは知らない。ただ、あの辺りに近づく者は、みんな、追い返される」
「――場所は」
「ここから、さらに東。山を、一つ、越えた先だ。それ以上は、俺も行ったことがない」
老人は、それだけ言うと、これ以上は語りたくないというように、視線を、手元の酒杯に落とした。その情報に、晴の心臓が大きく跳ねた。これまで、断片的だった手がかりが、初めて明確な方向性を持ち始めていた。
晴は、老人に礼を告げ、宿場町の小さな旅籠に向かった。木造の、軋みの目立つ建物。案内された部屋は、窓が一つあるだけの、簡素な造り。晴は、荷物を下ろし、寝台の縁に腰を下ろした。
窓の外、東の空には、これまで見たことのない、複雑に入り組んだ雲が、幾重にも重なり合っていた。それは、まるで、この先に待ち受ける困難を暗示しているかのようだった。
馬車が使えないとなれば、この先は、自らの足で進むしかない。晴は、懐から、蒼一郎の記録と、宿場で得た情報を、改めて、頭の中で整理し直した。山を一つ越えた先――それが、唯一の、確かな手がかりだった。
「――もう少しだ。灯、待っていてくれ」
晴は、心の中でそう呟きながら、遠くに霞む、東の山並みを、窓越しにじっと見つめ続けていた。日が沈むにつれ、その山並みは、次第に濃い藍色の影へと姿を変えていった。
晴は、その夜、明日からの徒歩での道のりに備え、灯りを落とし、静かに眠りについた。




