第四十七話「帰還」
氷雨家旧邸から、七番区へと戻る道のりは、行きよりも、遥かに長く感じられた。
背負った木箱の重みが、一歩ごとに、肩に、じんわりと食い込んでくる。
山道を下るにつれ、周囲の景色は、少しずつ、見慣れたものへと変わっていった。
くすんだ色の木々が、次第に、緑濃い並木道へと変わり、やがて、遠くに、七番区の煉瓦色の屋根が霞んで見え始めた。
だが、その木箱の重みは、決して不快なものではなかった。
むしろ、灯を取り戻すための、確かな手がかりを抱えているという実感が、晴の足取りに、これまでにない力強さを与えていた。
道中、晴の頭の中では、蒼一郎から聞いた物語が、何度も繰り返し、再生されていた。
垣根越しに笑い合う、幼い洸と紬の姿。
祭りの夜の告白。
そして、あの、祠のそばでの、あまりに残酷な結末。洸、紬、研一
――そして、「黒曜」という姓。
忍の顔が、その度に、脳裏に浮かんでは、消えなかった。
半眼の奥、深い黒褐色の瞳。
あの、感情の読めない表情の下に、これほどまでの因縁が眠っていたのだとすれば。
――もし、本当に、忍が、あの創設者の血を引いているのだとしたら。
その考えは、晴の中で、まだ確信には至っていなかった。
だが、もはや、無視できるほど小さな疑念でもなかった。
乗合馬車の窓の外を流れる景色を眺めながら、晴は、その疑念を、何度も、頭の中で反芻し続けていた。
七番区に戻った晴は、その足で支局の近くにある、小さな宿を訪れた。
すでに調律省を辞している身では、以前のように、職員用の住宅に戻ることはできない。
当座の寝床を確保しながら、晴は、今後の動きを慎重に練り直す必要があった。
宿の一室は、狭く、簡素だった。
木製の寝台と、小さな机、それだけの部屋。
窓の外には、隣の建物の壁が、すぐ近くに迫っている。
かつて職員住宅で暮らしていた頃とは、比べ物にならないほどの質素な環境だった。
それでも晴には、その狭さを気にする余裕すらなかった。
荷を下ろし、木箱の中身を改めて確認する。
色褪せた書類の束、古い記録帳
――それらの一枚一枚に、東雲家と氷雨家の、これまで晴が知らなかった歴史が刻まれていた。
中には、当時の家系図の写しや、両家の間で交わされていたという、古い儀式の記録もあった。
紙をめくるたび、乾いた、独特の匂いが、部屋に微かに漂った。
晴は、その記録を、丁寧に、机の上に並べていった。灯を助け出すための、確かな武器になる。
そう、自分に言い聞かせながら。
窓の外はすでに、夜の帳が下り始めていたが、晴は、蝋燭の灯りを頼りに、しばらくの間、その記録に目を通し続けていた。
翌日、晴は、玲との接触を試みた。
あの夜、想いを告げられ、それを拒んだ後、二人の間には、まだ、気まずさが残っていた。
それでも、灯を助けるためには、玲の協力が不可欠だった。
支局近くの、人気の少ない路地で、晴は、玲を待った。
晴は、玲が施術を受け、しばらく休んでいたことを知らなかった。
いつも通り、勤務を終えて、支局を出てくるであろう時間を見計らい、石畳の道の脇、古い煉瓦壁に寄りかかるようにして、時間を潰す。
しばらくして、調律省の制服姿の玲が、支局の通用口から姿を現した。
その顔色は、以前よりも、僅かに、青白く見えた。晴には、その理由を知る由もなかった。
「――戻ったのか」
「はい。氷雨家の旧邸まで、足を延ばしていました」
玲は、僅かに、目を見開いた。
それから、何かを察したように、小さく、息を吐いた。
路地に吹き込む風が、玲の白に近いプラチナブロンドを僅かに揺らした。
「――何か、わかったのか」
「はい。かなり、多くのことが」
晴は、蒼一郎から聞いた話の要点を、玲に伝えた。
東雲家と氷雨家の因縁、大嵐の真の原因、そして
――「黒曜」という姓の、公にはされていない、もう一つの由来。
話す間、玲は、腕を組んだまま、一言も、口を挟まなかった。
ただ、その表情は、話が進むにつれ、次第に強張っていった。
「――待て。黒曜研一が、調律省の創設者だってことは、私も研修で習った。だが」
玲の声が、僅かに震えた。
「創設者が、もう一人、いたなんて話は、聞いたことがない」
「はい。それも、東雲家の出身の、男でした」
「――それが、公式の歴史に、一切、残っていない」
玲の声には、動揺と、それでも冷静さを保とうとする、複雑な色が滲んでいた。
路地の奥、遠くから、荷馬車の車輪の音が、微かに響いてきた。
「忍幹部が、創設者の血を引いているのは、今更、驚くことじゃない。だが、その裏に、隠された、もう一人の男がいたとなると――話は、別だ」
「もう一つ、伝えておきたいことがあります」
晴は、玲の目を、まっすぐに見据えた。
「この国が、感情を天候として管理するようになったのは、洸と研一が、その仕組みを作り上げたからです。だとすれば、その仕組みには、必ず、核になる部分――システムそのものの中枢が、存在するはずです」
「――中枢」
「調律省のどこかに、その中枢があるはずです。以前のような、感情を隠さずに生きられる国に戻すためには、いずれ、それを見つけ出し、破壊しなければならない」
玲は、しばらく、黙り込んだ。
晴の言葉の重さを、噛み締めるように。
「――大それたことを、考えるようになったな」
「灯を助け出すだけでは、根本的な解決には、ならない気がするんです。この国そのものが変わらなければ、また、同じことが、繰り返される」
「――私の方にも、話がある」
玲は、そう切り出すと、声を、僅かに落とした。
周囲に、人の気配がないことを、もう一度、確かめる仕草を見せる。
「灯の収容先について、手がかりを掴んだ。東部方面だ」
その言葉に、今度は、晴が、目を見開く番だった。
「――東部、ですか」
「東部方面への、非公開の便が、頻繁に組まれている。輸送班の人間にも聞いてみたが、行き先や中身は、極秘任務だとかで、教えてもらえなかった。だが、その周辺で、賊が頻繁に出没しているという話は、聞けた。統率の取れた、まとまった集団らしい。ただの野盗にしては、随分と、組織立っているとも」
「――場所は」
「東部の街道沿い、山がちな一帯に集中してるらしい。詳しい地点までは、わからない。それでも、厳重な警備を敷いてまで運ぶものが、ただの物資であるはずがない」
晴は、その情報を、頭の中で、素早く整理した。
氷雨家旧邸で得た、一族の歴史。
そして、玲が掴んだ、東部方面という、具体的な地理的手がかり。
二つの情報が、今、初めて、一つの方向へと、収束し始めていた。
胸の奥で、これまで燻っていた焦燥感が、確かな方向性を持った熱へと、変わっていくのを、晴ははっきりと感じ取った。
「――行きましょう、東部へ」
晴の声には、これまでにない、確かな決意が、宿っていた。
だが、玲は、静かに首を振った。
「――私は、行かない」
その言葉に、晴は、僅かに、戸惑いを見せた。
「灯を連れ戻すのは、お前の役目だ。私が、東部までついて行っても、できることは限られてる」
玲は、そう言うと、七番区の方角――中央塔が、遠くに霞んで見える方を見つめた。
「それより、私は、調律省に戻る。お前が話した、システムの中枢とやらを、内側から、探ってみる。今の私なら、まだ、支局の人間として動ける」
「――危険では」
「今更だ」
玲は、僅かに、口の端を上げた。
それは、これまでの気まずさを、そっと押しのけるような静かな笑みだった。
「お前は、灯を。私は、この国そのものを。役割分担、というやつだ」
その言葉に、晴は、しばらく、玲の顔を見つめていた。
それから、深く、頭を下げた。
「――お願いします」
「任せておけ」
七番区の空、その向こうに広がる東の方角と、中央塔が霞む方角
――二人は、それぞれ、異なる方向を、しばらくの間、見つめ続けていた。
夕暮れの光が、その両方の空を、静かに、橙色に染めていた。




