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空が壊れるほどの恋だった  作者: Kakou
【第二部】第二章
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第四十七話「帰還」

氷雨家旧邸から、七番区へと戻る道のりは、行きよりも、遥かに長く感じられた。


背負った木箱の重みが、一歩ごとに、肩に、じんわりと食い込んでくる。

山道を下るにつれ、周囲の景色は、少しずつ、見慣れたものへと変わっていった。

くすんだ色の木々が、次第に、緑濃い並木道へと変わり、やがて、遠くに、七番区の煉瓦色の屋根が霞んで見え始めた。


だが、その木箱の重みは、決して不快なものではなかった。

むしろ、灯を取り戻すための、確かな手がかりを抱えているという実感が、晴の足取りに、これまでにない力強さを与えていた。


道中、晴の頭の中では、蒼一郎から聞いた物語が、何度も繰り返し、再生されていた。

垣根越しに笑い合う、幼い洸と紬の姿。

祭りの夜の告白。

そして、あの、祠のそばでの、あまりに残酷な結末。洸、紬、研一


――そして、「黒曜」という姓。

忍の顔が、その度に、脳裏に浮かんでは、消えなかった。

半眼の奥、深い黒褐色の瞳。

あの、感情の読めない表情の下に、これほどまでの因縁が眠っていたのだとすれば。


――もし、本当に、忍が、あの創設者の血を引いているのだとしたら。


その考えは、晴の中で、まだ確信には至っていなかった。

だが、もはや、無視できるほど小さな疑念でもなかった。


乗合馬車の窓の外を流れる景色を眺めながら、晴は、その疑念を、何度も、頭の中で反芻し続けていた。


七番区に戻った晴は、その足で支局の近くにある、小さな宿を訪れた。

すでに調律省を辞している身では、以前のように、職員用の住宅に戻ることはできない。

当座の寝床を確保しながら、晴は、今後の動きを慎重に練り直す必要があった。


宿の一室は、狭く、簡素だった。

木製の寝台と、小さな机、それだけの部屋。

窓の外には、隣の建物の壁が、すぐ近くに迫っている。

かつて職員住宅で暮らしていた頃とは、比べ物にならないほどの質素な環境だった。

それでも晴には、その狭さを気にする余裕すらなかった。


荷を下ろし、木箱の中身を改めて確認する。

色褪せた書類の束、古い記録帳

――それらの一枚一枚に、東雲家と氷雨家の、これまで晴が知らなかった歴史が刻まれていた。

中には、当時の家系図の写しや、両家の間で交わされていたという、古い儀式の記録もあった。

紙をめくるたび、乾いた、独特の匂いが、部屋に微かに漂った。


晴は、その記録を、丁寧に、机の上に並べていった。灯を助け出すための、確かな武器になる。

そう、自分に言い聞かせながら。

窓の外はすでに、夜の帳が下り始めていたが、晴は、蝋燭の灯りを頼りに、しばらくの間、その記録に目を通し続けていた。


翌日、晴は、玲との接触を試みた。

あの夜、想いを告げられ、それを拒んだ後、二人の間には、まだ、気まずさが残っていた。

それでも、灯を助けるためには、玲の協力が不可欠だった。


支局近くの、人気の少ない路地で、晴は、玲を待った。

晴は、玲が施術を受け、しばらく休んでいたことを知らなかった。

いつも通り、勤務を終えて、支局を出てくるであろう時間を見計らい、石畳の道の脇、古い煉瓦壁に寄りかかるようにして、時間を潰す。

しばらくして、調律省の制服姿の玲が、支局の通用口から姿を現した。

その顔色は、以前よりも、僅かに、青白く見えた。晴には、その理由を知る由もなかった。


「――戻ったのか」


「はい。氷雨家の旧邸まで、足を延ばしていました」


玲は、僅かに、目を見開いた。

それから、何かを察したように、小さく、息を吐いた。

路地に吹き込む風が、玲の白に近いプラチナブロンドを僅かに揺らした。


「――何か、わかったのか」


「はい。かなり、多くのことが」


晴は、蒼一郎から聞いた話の要点を、玲に伝えた。

東雲家と氷雨家の因縁、大嵐の真の原因、そして

――「黒曜」という姓の、公にはされていない、もう一つの由来。

話す間、玲は、腕を組んだまま、一言も、口を挟まなかった。

ただ、その表情は、話が進むにつれ、次第に強張っていった。


「――待て。黒曜研一が、調律省の創設者だってことは、私も研修で習った。だが」


玲の声が、僅かに震えた。


「創設者が、もう一人、いたなんて話は、聞いたことがない」


「はい。それも、東雲家の出身の、男でした」


「――それが、公式の歴史に、一切、残っていない」


玲の声には、動揺と、それでも冷静さを保とうとする、複雑な色が滲んでいた。

路地の奥、遠くから、荷馬車の車輪の音が、微かに響いてきた。


「忍幹部が、創設者の血を引いているのは、今更、驚くことじゃない。だが、その裏に、隠された、もう一人の男がいたとなると――話は、別だ」


「もう一つ、伝えておきたいことがあります」


晴は、玲の目を、まっすぐに見据えた。


「この国が、感情を天候として管理するようになったのは、洸と研一が、その仕組みを作り上げたからです。だとすれば、その仕組みには、必ず、核になる部分――システムそのものの中枢が、存在するはずです」


「――中枢」


「調律省のどこかに、その中枢があるはずです。以前のような、感情を隠さずに生きられる国に戻すためには、いずれ、それを見つけ出し、破壊しなければならない」


玲は、しばらく、黙り込んだ。

晴の言葉の重さを、噛み締めるように。


「――大それたことを、考えるようになったな」


「灯を助け出すだけでは、根本的な解決には、ならない気がするんです。この国そのものが変わらなければ、また、同じことが、繰り返される」


「――私の方にも、話がある」


玲は、そう切り出すと、声を、僅かに落とした。

周囲に、人の気配がないことを、もう一度、確かめる仕草を見せる。


「灯の収容先について、手がかりを掴んだ。東部方面だ」


その言葉に、今度は、晴が、目を見開く番だった。


「――東部、ですか」


「東部方面への、非公開の便が、頻繁に組まれている。輸送班の人間にも聞いてみたが、行き先や中身は、極秘任務だとかで、教えてもらえなかった。だが、その周辺で、賊が頻繁に出没しているという話は、聞けた。統率の取れた、まとまった集団らしい。ただの野盗にしては、随分と、組織立っているとも」


「――場所は」


「東部の街道沿い、山がちな一帯に集中してるらしい。詳しい地点までは、わからない。それでも、厳重な警備を敷いてまで運ぶものが、ただの物資であるはずがない」


晴は、その情報を、頭の中で、素早く整理した。

氷雨家旧邸で得た、一族の歴史。

そして、玲が掴んだ、東部方面という、具体的な地理的手がかり。

二つの情報が、今、初めて、一つの方向へと、収束し始めていた。

胸の奥で、これまで燻っていた焦燥感が、確かな方向性を持った熱へと、変わっていくのを、晴ははっきりと感じ取った。


「――行きましょう、東部へ」


晴の声には、これまでにない、確かな決意が、宿っていた。

だが、玲は、静かに首を振った。


「――私は、行かない」


その言葉に、晴は、僅かに、戸惑いを見せた。


「灯を連れ戻すのは、お前の役目だ。私が、東部までついて行っても、できることは限られてる」


玲は、そう言うと、七番区の方角――中央塔が、遠くに霞んで見える方を見つめた。


「それより、私は、調律省に戻る。お前が話した、システムの中枢とやらを、内側から、探ってみる。今の私なら、まだ、支局の人間として動ける」


「――危険では」


「今更だ」


玲は、僅かに、口の端を上げた。

それは、これまでの気まずさを、そっと押しのけるような静かな笑みだった。


「お前は、灯を。私は、この国そのものを。役割分担、というやつだ」


その言葉に、晴は、しばらく、玲の顔を見つめていた。

それから、深く、頭を下げた。


「――お願いします」


「任せておけ」


七番区の空、その向こうに広がる東の方角と、中央塔が霞む方角

――二人は、それぞれ、異なる方向を、しばらくの間、見つめ続けていた。

夕暮れの光が、その両方の空を、静かに、橙色に染めていた。



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