第四十六話 「六花の日々」
六花にとって、集団棟での一日は、ほとんど代わり映えのしないものだった。
朝、決まった時間に起こされ、決まった食事を摂り、決まった作業場で、決まった仕事をこなす。
その繰り返しが、もう、何年も続いていた。
窓のない廊下を歩く足音、配膳の音、針を動かす音
――そのすべてが、六花にとって、体に染み付いた、生活のリズムになっていた。
数えるのをやめた、というのは嘘ではなかった。
だが、体に染み付いた日数の感覚だけは、六花の中に、うっすらと残り続けていた。
――もう、五年と、少し。
その数字を、六花は、誰にともなく、時々、心の中で確認していた。
指折り数えるでもなく、ただ、感覚として、体の奥に刻まれている数字だった。
灯が、集団棟に移されてきてから、六花の日々には、小さな変化が生まれていた。
最初は、面倒だと思っていた。
上から押し付けられた役目。
歳が近いというだけの、理由にもならない理由。
それでも、隣に座らせられた新入りの、不器用な手つきを見ているうちに、六花は、放っておくことができなくなっていた。
「――また、そこ、糸が絡んでる」
作業場、六花は、灯の手元を覗き込みながら、ため息交じりにそう言った。
長机に並んだ布と針の山、その隅で、灯の手だけが、不慣れにもたついている。
灯は、慌てて、絡まった糸をほどこうとする。
指先が、小刻みに震えていた。
その様子に、六花は、小さく、笑いを漏らした。
「そんなに、慌てなくていい。ゆっくりでいいから」
自分の口から、そんな言葉が出たことに、六花自身、少し驚いていた。
以前の自分なら、決して、口にしなかったであろう、気遣いの言葉。
灯という存在が、六花の中の、何かを、少しずつ、溶かし始めているようだった。
六花は、その驚きを、誰にも気づかれないよう、平静を装いながら、隣の布に視線を戻した。
休憩の時間、六花は、灯と並んで、作業場の壁にもたれて座っていた。
コンクリートの壁は、冷たく、それでいて、どこか、安心する感触があった。
「――六花は、外にいた頃、何してたの」
灯が、ふと尋ねた。
六花は、しばらく、答えを迷った。
この場所で、外の記憶を語ることは、あまり、良いこととは思われていなかった。
思い出すほど、失ったものの大きさを、突きつけられるからだ。
周りの収容者たちの多くが、故意に、過去の話題を避けているのを、六花は、これまで何度も目にしてきた。
それでも、灯の、まっすぐな瞳に、六花は、少しだけ心を許した。
「――普通の、学生だった。友達と、馬鹿なことして笑って。それだけの、毎日」
「それが、急に」
「うん。ある日、突然」
六花は、それ以上多くを語らなかった。
視線を、膝の上に落としたまま、しばらく黙り込む。
だが、その短い言葉の中に、六花が失った日常の重みが、確かに滲んでいた。
灯は、それ以上、深くは聞かず、ただ、六花の肩に、そっと寄りかかった。
二人の間に流れる沈黙は、気まずいものではなく、むしろ、これまでにない、穏やかなものだった。
その日の夕方、作業場の外から、いつもと違う、慌ただしい足音が響いてきた。
職員たちが、何やら緊張した様子で、廊下を行き来している。
「――何かあったのかな」
灯が、不安げに呟いた。
六花も、その気配に、僅かに眉を寄せた。
「さあ。ただ」
六花は、作業場の入り口近くまで、そっと近づいた。
灯もそれに続いた。
半開きになった扉の隙間から、廊下を行き交う職員たちの、途切れ途切れの会話が漏れ聞こえてくる。
「――東の便、また、遅れるらしい」
「賊が、出たって?」
「ああ。ここ最近、東部方面で、頻発してる。護送の人数、増やさないと危ないって話だ」
その会話に、六花と灯は、思わず顔を見合わせた。
職員たちは、それ以上、詳しいことは話さないまま、足早に、廊下の奥へと消えていった。
「――東部の、便」
六花は、その言葉を、小さく繰り返した。
「輸送に、賊が絡んでるって、ことか。だから、こんなに、警備が慌ただしいのね」
「――それって」
「さあ。あたしらには、関係ないことかもしれないけど」
六花は、そう言いながらも、その言葉にはこれまでにない、微かな緊張が滲んでいた。
「最近、なんか、外が、騒がしい気がしてたのは、これだったのかもね。何年もここにいると、そういう、小さな変化には、敏感になるから」
六花の言葉には、長期収容者だからこその、独特の観察眼が滲んでいた。
夜、灯が眠りについた後も、六花は、しばらくの間眠れずにいた。
隣で眠る、灯の寝顔を、六花は、そっと見つめた。
規則正しい寝息、僅かに動く睫毛
――そのすべてが、この二年余りで、初めてできた、心を許せる相手の存在を、六花に実感させていた。
同時に、六花の中には、小さな怖れも、芽生え始めていた。
もし、灯が、この場所からいなくなってしまったら。
あるいは、逆に、自分がいなくなってしまったら。
――こんなこと、考えても、仕方ないのに。
六花は、自分の中に芽生えた感情に、戸惑いながらも、それを無理に、押し殺そうとはしなかった。
窓のない部屋、その天井を見上げながら、六花は、静かに目を閉じた。
遠くで、まだ微かに、職員たちの足音が続いていた。




