第四十五話 「東部の噂」
あの夜以来、玲は、自室で一人、静養していた。
晴に想いを告げた、あの瞬間。
抑え込んできたはずの感情が、堰を切ったように溢れ出したことで、玲自身の頭上にも、これまでにない、激しい反応が表れていた。
同僚がそれに気づき、規定に従って、支局の医務室へと報告が上がった。
「――専属監視官並みの、過剰反応です。念のため施術を」
白衣を着た医務官の淡々とした声を、玲は、どこか遠くのことのように聞いていた。
その診断に、玲は抵抗しなかった。
むしろ、どこか、他人事のように、それを受け入れていた。
感情の昂ぶりを鎮める、あの独特の浮遊感。
意識が、緩やかに、霞んでいく感覚。
玲は、これまで、幾度となく、対象者にそれを施す側だった。
まさか、自分自身が、その処置を受ける日が来るとは思ってもみなかった。
器具が、こめかみに近い位置に当てられた瞬間、玲は、目を閉じ、すべてをその処置に委ねた。
施術を受けてから、数日が経っていた。
玲は、自室のベッドに横たわったまま、天井をぼんやりと見つめ続けていた。
天井の木目は、いつも見慣れているはずなのに、今は、やけに遠く感じられた。
窓の外に見える空は、いつも通り穏やかだった。
だが、玲の心の中には、まだ、鈍い痛みが燻り続けていた。
体は、施術の余韻で、鉛のように重く、指先を動かすことすら億劫だった。
「――行かないで」
あの一言を、口にしてしまった瞬間のことを、玲は、繰り返し、思い出していた。
これまで、誰にも見せたことのなかった、剥き出しの弱さ。
それを、他でもない、晴の前で晒してしまった。
晴の困惑した表情、そして「ごめん」という、短い、けれど確かな拒絶の言葉
――そのすべてが、まぶたの裏に、焼き付いて離れなかった。
後悔はしていない、と、玲は、自分に言い聞かせようとした。
だが、その言葉の裏で、消えない未練が、静かに疼いていた。
ベッドの脇に置かれた水差しに、口をつける気力も、今の玲には湧いてこなかった。
規定により、玲の勤務は、しばらくの間休止扱いになっていた。
だが、完全に、外の情報から遮断されているわけではなかった。
その日の午後、玲は、体調確認のために訪れた、同僚の女性職員と、短い会話を交わしていた。
カーテン越しの西日が、部屋の中を、淡いオレンジ色に染めていた。
「――最近、支局は、どう」
玲が尋ねると、女性職員は、椅子を、ベッドの脇に引き寄せながら、周囲を気にするように、声を僅かに落とした。
「実は、少し、物騒な話を聞いて」
「――物騒?」
「本部付きの、輸送班の子から聞いたんだけど。最近、東部方面で、賊が頻繁に出没してるらしくて。治安が、かなり悪くなってるって」
玲の意識が、瞬時に鋭くなった。
それまでの気だるさが、嘘のように消え失せていく。
ベッドのシーツを握る指先に、無意識のうちに力がこもった。
「――東部方面、というのは」
「詳しいことは、私も知らない。ただ、その輸送班、東部方面への、非公開の便を、頻繁に組まされてるらしくて。それも、かなり、警備が厳重な便だって。だから、賊に、目をつけられやすいんじゃないかって、噂になってるみたい」
その言葉に、玲は、思わず体を起こした。
頭の芯に、僅かな眩暈を覚えたが、それを気にする余裕はもうなかった。
厳重な警備を要する、非公開の輸送。
それが、単なる物資であるはずがなかった。
「その輸送班の子の名前、教えてもらえる?」
「――玲、体調大丈夫?そんなに慌てて」
女性職員が、驚いたように、玲の顔を覗き込んだ。
玲は、その視線を受け止めながら、静かにけれど揺るぎない声で答えた。
「大丈夫。ただ、確かめたいことがあって」
女性職員は、怪訝そうな顔をしながらも、その名を、玲に伝えた。
玲は、その名を、頭の中にしっかりと刻み込んだ。忘れないよう、何度も口の中で繰り返した。
女性職員が去った後、玲は、一人、ベッドの上で静かに拳を握りしめた。
夕暮れの光が、部屋の中を、徐々に赤く染めていく。
東部方面。
厳重な警備を要する、非公開の輸送便。
それは、これまで、どれだけ資料庫を探しても、見つからなかった、灯の行方に繋がる、初めての具体的な手がかりだった。
施術による気だるさは、まだ、体の奥に僅かに残っていた。
それでも、玲の中に、これまでとは違う、確かな熱が、静かに灯り始めていた。
――今度こそ。
玲は、ベッドから、ゆっくりと体を起こした。
まだ本調子ではない体を、無理に奮い立たせる。
足元が、僅かにふらついたが、それでも、玲は壁に手をつきながら、立ち上がった。
晴に振られた痛みは、消えていない。
だが、今、それに浸っている時間は、玲には残されていなかった。
窓の外、七番区の方角に目を向けると、あの不穏な雲が、依然として、薄く、漂い続けているのが見えた。
玲は、その空を見上げながら、静かに、次の行動への決意を固めていた。




