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空が壊れるほどの恋だった  作者: Kakou
【第二部】第二章
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第四十四話 「調律省」

囲炉裏の炎を見つめたまま、蒼一郎は、しばらく口を閉ざしていた。

晴は、その沈黙を、急かすことなく静かに待っていた。


「――洸が、氷雨の屋敷から消えた後のことだ」


蒼一郎は、ゆっくりと言葉を継いだ。


「行方をくらました洸を、探そうとする者は誰もいなかった。跡継ぎを失った氷雨の家は、洸のことを、"忌まわしい過去"として、そのまま忘れ去ろうとしたのだろう」


「――では、洸は、どこへ」


「紬の父のもとに、匿われていたと言い伝えられている」


「紬の父は、研究者だったそうだ。名を、黒曜研一という」


その名に、晴は僅かに眉を動かした。


「研一もまた、娘を、理不尽な形で、奪われた者だった。悲しみと、それ以上の、深い復讐心を胸に抱えていたのだろう」


蒼一郎は、炎を見つめたまま続けた。


「行方不明とされていた洸を、研一は、密かに、自分のもとに匿った。二人は、互いの喪失を、分かち合ったのだろうな。そして、その悲しみが、いつしか、一つの恐ろしい計画へと姿を変えていった」



「計画、というのは」


晴が尋ねると、蒼一郎は、深く息を吐いた。


「二人の望みは、単に、東雲と氷雨の血を管理することだけではなかったそうだ」


蒼一郎の声は、静かだったが、その奥にこれまでにない、重い響きが滲んでいた。


「――こんな悲しい思いを、二度と、誰にもさせたくない。その一心で、二人は、この世界そのものから、激しい恋愛感情というものを消し去ろうとした」


晴は、息を呑んだ。


「研一の、研究者としての知識と、洸の、すべてを失った者の執念。その二つが組み合わさって、感情を天候として可視化し、強制的に管理する仕組み――今の、調律省の、そもそもの姿が、作り上げられたという」



「――なぜ、そんな、大それたことが」


「わしにも、正確な仕組みまでは、わからん。だが、二人は、それを成し遂げた。そして、その仕組みを、国家という、大きな器の中に組み込んでいった」


蒼一郎は、一度、言葉を切った。


「特に、東雲と氷雨、二つの血筋に対しては、二人は、より強く、より執拗な力を、組み込んだと伝えられている。この先、両家の血が、代を重ねるたびに、まるで呪いのように、その結びつきを引き裂こうとする力が働くように」


その言葉に、晴の背筋に冷たいものが走った。

灯と自分の間に、これまで感じてきたあの見えない圧力

――それが、単なる偶然や、自然の摂理ではなく、何者かによって、意図的に仕組まれたものだったのだとしたら。



「洸は、その時、東雲の姓を捨て、亡き紬の姓――黒曜を自ら名乗ったそうだ」


蒼一郎の言葉に、晴は、その名前を頭の中で繰り返した。

黒曜。

それは、この国の中枢に君臨する、あの男の姓と同じだった。


「洸は、東雲家と氷雨家、その両方を、深く恨んでいた。自分を縛りつけようとした実家と、自分から想い人を奪う結果を招いた家――そのどちらも彼にとっては、許しがたい存在だったのだろう」


「――洸の、その後は」


「わからん。研一と共に、その仕組みを完成させた後、二人が、どうなったのか。子孫を残したのかどうかも。ただ」


蒼一郎は、静かに目を伏せた。


「洸の血は、今も、どこかで続いているのではないかと、わしは思っている」



晴は、しばらくの間、言葉を失っていた。

黒曜研一が、調律省の創設者であることは、これまでも、調律士として学んできた、ごく基本的な歴史だった。

忍が、その名家の血筋であることも、今更、驚くようなことではない。


だが――創設者は、研一 一人ではなかった。

東雲家出身の、洸という男が、その裏に、確かに存在していた。

その事実は、これまで公的な歴史のどこにも、記されていなかった。


脳裏に、忍の顔が浮かんだ。

あの、感情の読めない、半眼の奥。晴を見据えていた、あの深い黒褐色の瞳。

忍は、この隠された真実を、知っているのだろうか。

それとも、彼自身もまた、公式の歴史――研一 一人が創設者であるという物語しか、知らないのだろうか。


――もし、忍が、この事実を知らないのだとしたら。


その考えは、晴の中で、まだ答えの出ない、大きな疑問として残り続けていた。


「――灯の父と母の物語も、この、古い因縁の続きだ」


蒼一郎の声が、晴の思考を現実に引き戻した。

だが、その先を続けようとしかけて、蒼一郎は、ふと言葉を止めた。


「――いや」


「――何か」


「あの子の両親の話は、できることなら、わし自身の口から、灯に、直接、聞かせてやりたい。お前を介して伝えるには、あまりに、重すぎる話だ」


蒼一郎は、そう言うと、静かに目を伏せた。

その横顔には、これ以上他人を通して、あの子の両親の記憶を語ることへの、ためらいが滲んでいた。


「――わかりました」


晴は、それ以上、無理に聞き出そうとはしなかった。蒼一郎の想いを尊重したかった。


窓の外、夜はすでに、完全に更けていた。

囲炉裏の炎だけが、二人の間で、静かに揺らめき続けていた。

晴は、しばらくの間、その炎を見つめたまま動けずにいた。

頭の中では、「黒曜」という名前が、何度も、繰り返し反響していた。


「――こんな時刻に、山を下りるのは危ない」


蒼一郎が、そう言って部屋の隅を指し示した。


「今夜はここに泊まっていくといい。粗末な場所だが、雨風はしのげる」


晴は、一瞬迷ったが、外はすでに真の闇に包まれている。

無理をして山道を下るよりは、蒼一郎の言葉に、素直に従う方が賢明だった。


「――お言葉に、甘えます」


その夜、晴は、蒼一郎が用意してくれた、古い布団に体を横たえた。

天井の隙間から、僅かに、星明かりが差し込んでいる。

頭の中では、洸と紬の物語、そして「黒曜」という名前が、いつまでも離れずにいた。

それでも、道中の疲れからか、いつしか、晴は深い眠りに落ちていた。



翌朝、目を覚ますと、囲炉裏にはすでに新しい火が入れられていた。

蒼一郎は、朝の光の中、静かに部屋の奥から頑丈な木箱を運んできた。


「お前に託す、一族の記録だ」


木箱の中には、色褪せた書類の束や、古い写真、記録帳などが、丁寧に納められていた。

晴は、その重みを両手で確かめるように、受け取った。


「――お預かりします」


「灯を助け出すために、役立ててくれ」


晴は、その木箱をしっかりと抱え、屋敷の外へと足を向けた。

朝の光が、崩れかけた門の向こうから、柔らかく差し込んでいる。


「――これで、失礼します」


晴が、改めてそう告げると、蒼一郎は、静かに頷いた。


灯を助け出すためには、まだ、やらなければならないことがある。

忍という男の正体を確かめること。

灯の元へ戻り、この事実をいずれ彼女自身にも伝えること。

晴は、胸の内で、静かに決意を新たにしていた。


「――そうか」


蒼一郎は、引き止めることなく頷いた。


「託した記録は、大切に使ってくれ。灯を頼む」


「必ずまた来ます。その時は、灯と一緒に」


その言葉に、蒼一郎の目に、初めて僅かな光が灯ったように晴には見えた。


晴は預かった木箱を抱え、崩れかけた屋敷を後にした。

朝の光が差し込む山道を、七番区へと向かって一歩ずつ、歩き出す。

頭の中では、忍の顔と、「黒曜」という名前が、いつまでも離れずにいた。



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