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空が壊れるほどの恋だった  作者: Kakou
【第二部】第二章
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第四十三話「はじまりの物語II」

それから数年、二人の関係は、周囲にも次第に認められていくようになった。

両家の親たちも、二人の仲を微笑ましく見守っていた。

将来、二人が夫婦になることは、誰もが当然のように思い描いていた。


洸にとって、紬との未来は、疑いようのない確かなものだった。

十八になった洸は、家業の手伝いをしながら、いずれ紬と所帯を持つ日のことを、頭の片隅でいつも思い描いていた。

畑仕事の合間、井戸端で水を汲む合間

――ふとした瞬間に、その未来の光景が、洸の脳裏に浮かんでは彼の口元を自然と緩ませた。


「――いつか、俺たちもこの庭に家を建てような」


洸がそう言うと、紬は嬉しそうに頷いた。

二人は、いつものように、あの垣根のそばの木陰に、並んで座っていた。

木漏れ日が、二人の影を地面に揺らめかせている。

頭上では、蝉の声が途切れることなく降り注いでいた。


「約束よ。絶対」


紬はそう言って、小指を差し出した。

その指先には幼い頃からの、小さな傷跡がうっすらと残っていた。

二人は指切りをして、笑い合った。

その笑顔がこれから訪れる運命のあまりの過酷さを、まだ何も知らないままに。


その日の空は、雲ひとつなく澄み渡っていた。

遠くの田畑では、稲穂が風に揺れて、金色の波を幾重にも描いていた。



異変は、ある日、突然訪れた。


東雲家の当主――洸の父が、洸を屋敷の奥の間に呼び出した。

普段、めったに顔を合わせることのない父からの呼び出しに、洸は僅かな胸騒ぎを覚えながら、その部屋の前に立った。

廊下の板張りが、歩くたびに微かに軋んだ。


「――お呼びでしょうか」


「入れ」


父の声には、いつもとは違う、硬さがあった。

洸が、襖を開けて部屋に入ると、そこには、父だけでなく、東雲家の重鎮と思われる、数名の年配者たちの姿もあった。

誰もが、険しい表情で腕を組み、あるいは俯いたまま洸を待ち構えていた。

その顔ぶれの重々しさに、洸は、ただならぬ予感を覚えた。

畳に正座する膝が、僅かに冷たくなった。



「洸、お前に大事な話がある」


父はそう切り出すと、静かに続けた。


「氷雨の家に、跡継ぎの男子が生まれなかった。しきたりに従い、東雲から婿養子を出すことになった」


洸は、その言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。

頭の中が、真っ白になったような感覚だった。

だが、続く父の言葉が、その意味を否応なく明確にした。


「お前が、その役目を務めることになる」


「――俺、が」


洸の声が、震えた。

指先から、血の気が引いていくのが自分でもわかった。


「お待ちください。俺には」


「知っている」


父は、洸の言葉を遮った。

その声には、僅かな苦渋の色が滲んでいたが、それでも、決定を覆すつもりはないことがはっきりと伝わってきた。


「紬との仲は、承知している。だが、これは家のしきたりだ。お前個人の想いで覆せるものではない」


その場にいた重鎮たちも、一様に頷いた。

誰一人として、洸の側に立とうとする者はいなかった。

壁に掛けられた古い掛け軸が、その場の重い沈黙をじっと見下ろしているように、洸には感じられた。


「これは家のためだ。わかるな」


父の最後の一言に、洸は、何も言い返すことができなかった。

ただ、拳を、畳の上で、強く握りしめることしかできなかった。


その夜、洸は紬にすべてを打ち明けた。

垣根のそばのいつもの木陰。

夜風が二人の間を冷たく吹き抜けていく。

だがその空気は、これまでとはまるで違っていた。


「――そんな」


紬の顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。

声が、僅かに、震えている。


「私たちの、約束は」


「わからない。だが、俺は」


洸は、紬の両手を強く握った。

冷たくなった、その手の震えが洸の掌にも伝わってきた。


「俺は、お前以外の誰かと、添い遂げるつもりは一切ない。何があっても」


紬は、しばらく俯いていた。

月明かりが、俯いた紬の横顔に淡い陰影を落としていた。

それから、意を決したように顔を上げた。

その目には、涙と、それでも消えない強さが、同時に宿っていた。


「――逃げましょう」


「紬」


「二人で、誰も知らない場所へ。ここに残っていたら、あなたは、連れて行かれてしまう」


その提案に、洸は、迷いながらも頷いた。

他に、道は残されていないように思えた。

垣根の向こうから虫の音だけが、二人の決意を静かに見守っていた。


二人は、夜半、それぞれの家を密かに抜け出す計画を練った。

着替えと、僅かな金子だけを持ち、街の外れで落ち合う。

そこから、誰も自分たちを知らない、遠くの土地を目指す

――それが、二人が思いつく、精一杯の計画だった。


計画を練る間、二人は幾度となく顔を合わせた。

声を潜め、地図の代わりに地面に木の枝で道筋を描きながら逃げる先の算段を立てた。

その一つ一つの相談が、洸にとっては、これまでの人生で最も緊張し、そして最も紬との絆を強く感じる時間でもあった。


決行の夜、洸は震える手で荷物をまとめた。

着替え。小さな布包みに詰め、懐に僅かな金子を忍ばせる。

障子の隙間から漏れる月明かりだけを頼りに、足音を殺しながら、屋敷の廊下を進んだ。

心臓が、痛いほど激しく鼓動していた。

廊下の角を曲がるたび、洸は、息を止め、周囲の気配を、何度も確かめた。


だが、その計画は、すでに東雲の家の者に勘付かれていた。



街の外れ、二人が落ち合う約束をしていた、古い祠のそばに洸が辿り着いた時

――そこには、すでに紬の姿があった。

月明かりに照らされた、その小さな背中を見つけた瞬間、洸の胸に安堵が広がった。

だが、次の瞬間、その安堵は瞬く間に凍りついた。


紬の周りを、東雲の家から遣わされた、数名の男たちが取り囲んでいた。


「――紬!」


洸が、駆け寄ろうとしたその瞬間だった。


「洸、大人しく戻れ。それとも」


男の一人が、そう言いかけた、次の瞬間

――紬が、洸を庇うようにして、前に出た。

もみ合いになった、その隙に、男の手にしていた刃が、紬の体を、深く、貫いた。


「――紬!!!」


洸の絶叫が、夜の闇に響き渡った。

腕の中に崩れ落ちる、紬の体。

まだ温かい。

だがその温もりは、洸の腕の中で、みるみるうちに失われていった。

月明かりの下、紬の着物の色が、暗く、染まっていく。


「――洸……ごめん、ね」


紬の唇が、最後に、そう紡いだ。

かすれた、消え入りそうな声だった。

それが、洸が聞いた、紬の最後の言葉だった。


洸は、その場に崩れ落ちるようにして、いつまでも、紬の体を抱きしめ続けていた。

周囲の男たちの声も、風の音も、もう、何一つ、洸の耳には届いていなかった。



それから、洸の中から、あらゆる感情が消え失せた。


喜びも、悲しみも、怒りさえも、何も、感じなくなった。

洸は、抜け殻のように、家に連れ戻され、氷雨への婿入りを、命じられるがままに受け入れた。

誰が何を言っても、洸は、ただ、頷くだけの、人形のような存在になっていた。


婿入りの儀式の日、氷雨の人々の前に立つ洸の顔は、能面のように、何の表情も浮かべていなかった。

かつて、紬の前でだけ見せていた、あの柔らかな表情は、もうどこにも残っていなかった。

祝いの席に並ぶ、豪華な料理も、周囲の祝福の言葉も、洸の心には何一つ届かなかった。


その夜、洸は、氷雨の屋敷から姿を消した。

跡継ぎを残すこともなく、ただ、忽然と、消え去った。

誰も、その後の洸の行方を、知る者はいなかった。

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