第四十ニ話 「はじまりの物語」
囲炉裏の火を見つめたまま、蒼一郎は、静かに、語り始めた。
「これから話すのは、この国そのものが、今の形になった、その始まりの話だ」
晴は、居住まいを正し、耳を傾けた。
薪の爆ぜる音だけが、時折、部屋の静寂を、小さく揺らしていた。
「東雲と氷雨、二つの家は、大昔から、互いの血を絶やさぬための、特殊な約束事を交わしていた。嫁は、それぞれ、外から迎える。だが、どちらかの家に、跡継ぎとなる男子が生まれなかった時は、もう一方の家の息子を、養子として迎え、婿として立てる――そういう、しきたりだ」
蒼一郎は、火を見つめたまま、遠い記憶を辿るように、語り始めた。
その声は、まるで、自分自身がその時代に立ち返ったかのように、静かに、けれど確かな熱を帯びていった。
「その頃、東雲の家に、洸という男がいた」
ーーーーーーーーー
ーーーーーー
ーーー
東雲洸と、紬は、幼い頃からの、隣人同士だった。
東雲の屋敷の裏手、垣根一枚を隔てた先に、紬の家はあった。
垣根には、ところどころ、隙間があり、幼い洸と紬は、その隙間を通り抜けて、互いの庭を行き来していた。
庭の隅にある大きな柿の木は、二人にとって、格好の遊び場だった。
洸が木に登り、紬がその下で、心配そうに、けれど楽しそうに、見上げている――そんな光景が、幼い日の、ありふれた一日だった。
二人は、物心つく前から、当たり前のように、共に育った。
洸にとって、紬は、妹のような、けれど、妹とは違う、特別な存在だった。
「――洸、また、そんなところで、ぼんやりして」
庭の隅、木陰に座り込んでいた洸に、紬が、呆れたような声をかける。
それは、二人の間で、幾度となく繰り返されてきた、ありふれたやり取りだった。
「考え事をしていただけだ」
「どうせ、くだらないことでしょう」
紬は、そう言いながらも、洸の隣に、当たり前のように、腰を下ろした。
垣根の向こうから、夕餉の支度をする匂いが、風に乗って、漂ってくる。
そんな、何気ない時間の積み重ねが、二人にとって、かけがえのないものになっていった。
二人が、十を過ぎる頃には、周囲の大人たちも、二人の仲を、微笑ましく眺めるようになっていた。
「洸ちゃんと紬ちゃんは、本当に仲がいいねえ」
近所の女たちが、そう言って笑うたび、幼い洸は、なぜか、無性に、照れくさい気持ちになった。
紬は、そんな大人たちの言葉に、しれっとした顔で、「腐れ縁なだけです」と、澄まして答えていたが、その耳の先は、いつも、僅かに赤くなっていた。
季節が巡るたび、二人の間には、数え切れないほどの小さな思い出が、積み重なっていった。
夏には、川で水を掛け合い、秋には、色づいた葉を拾い集め、冬には、互いの吐く息の白さを競い合った。
そのどれもが、特別なことではない、けれど、二人だけの、宝物のような時間だった。
洸が、自分の中にある感情の正体に、はっきりと気づいたのは、十六になった年の、夏の終わりだった。
村の祭りの夜、紬は、いつもと違う、晴れ着姿で、洸の前に現れた。
淡い水色の生地に、白い花の模様があしらわれた着物。結い上げた髪に挿された、小さな簪が、灯籠の光を受けて、きらきらと輝いていた。
「――どう、かしら」
紬は、少し照れくさそうに、その場で、くるりと回ってみせた。
裾が、ふわりと広がり、灯籠の淡い光が、紬の頬を、橙色に照らしていた。
洸は、その瞬間、胸の奥に、これまで感じたことのない、確かな高鳴りを覚えた。
喉の奥が、急に、渇いたような感覚があった。
「……似合ってる」
それだけ言うのが、精一杯だった。
紬は、その不器用な返事に、小さく笑った。
「洸って、本当に、そういうところ、変わらないよね」
祭りの通りには、屋台の明かりが、等間隔に並び、太鼓の音と、人々の笑い声が、賑やかに響いていた。
焼きとうもろこしの香ばしい匂い、綿菓子の甘い匂いが、夜風に乗って、あたりに漂っている。二人は、その喧騒の中を、並んで歩いた。
時折、肩が触れ合うたび、洸は、これまでにない、落ち着かない気持ちに、囚われていた。
その夜、二人は、祭りの喧騒から少し離れた、川辺のほとりで、並んで座った。
遠くから聞こえる祭囃子が、水面に、淡く反響していた。夜空には、無数の星が瞬いていた。
「――紬」
「なに」
紬が、こちらを向いた瞬間、洸は覚悟を決めた。
心臓が、痛いほど速く鼓動していた。
「俺は、お前が、好きだ」
その一言に、紬は、驚いたように目を見開いた。
しばらくの間、月明かりの下、二人の間に沈黙が流れた。虫の音だけが、その静けさを、静かに埋めていた。
それから、紬は、ゆっくりと、頬を赤らめながら、頷いた。
「――知ってた。ずっと、そう言ってくれるの、待ってた」
その答えに、洸は、しばらく言葉を失っていた。
安堵と、これまで感じたことのない歓喜が、同時に、胸の奥から込み上げてきた。
二人の間に流れる沈黙は、これまでのどんな時間よりも、温かく、満ち足りたものだった。
川のせせらぎだけが、その静かな夜を、優しく満たしていた。
紬が、そっと、洸の肩に頭を預けた。
その温もりを、洸は、いつまでも忘れないだろうと思った。




