第四十一話 「屋敷の記憶」
崩れかけた門をくぐり、晴は、氷雨家旧邸の敷地内へと、足を踏み入れた。
門扉は、片方が蝶番から外れ、地面に、斜めに突き刺さるようにして倒れている。
敷地の中に一歩入ると、外の風の音が、心なしか、遠くなったように感じられた。
長年、人の手が入っていない庭は、腰の高さほどまで伸びた雑草に、覆い尽くされている。
かつては、丁寧に手入れされていたのだろう飛び石の道も、今は、雑草の間から、辛うじて、その輪郭を覗かせているだけだった。
建物の外観は、長年の風雨によって、すっかり荒れ果てていた。屋根の一部が崩落し、外壁には、大小の亀裂が、蜘蛛の巣のように、走っている。だが、敷地の奥へと進むうち、晴は、違和感を覚えた。
庭の片隅、雑草に埋もれた地面の一角だけが、明らかに、手入れされている。
小さな菜園のようなものが、そこにあった。
整然と並んだ畝、支柱に絡みつく、青々とした蔓。
土は、湿り気を帯び、最近、水をやったばかりのように見えた。周囲の荒廃ぶりとは、あまりにも不釣り合いな、その一角。
人が住めるような状態ではないはずだった。
それなのに――晴は、息を潜め、慎重に、屋敷の奥へと、足を進めた。
崩れかけた廊下は、踏むたびに、ぎしり、と鈍い音を立てた。
晴は、床が抜けている箇所を、その都度、慎重に避けながら、進んでいった。
壁際には、割れた花瓶や、朽ちた木箱が、無造作に積まれている。
長い年月の間に降り積もった埃が、晴の足音に合わせて、微かに、宙を舞った。
比較的、原型を留めている一室から、微かに、煙のような匂いが漂ってきた。
木を燃やす、あの独特の匂い。
晴は、その匂いを辿るように、廊下の奥へと、足を進めた。
――誰か、いる。
心臓が、僅かに、速く打ち始めるのを、晴は感じた。
廃墟だと思っていた場所に、確かな、人の気配。
晴は、その部屋の前で、一度、深呼吸をしてから、意を決して、声をかけた。
「――失礼します。どなたか、いらっしゃいますか」
声は、静まり返った屋敷の中に、思いのほか、大きく響いた。
しばらくの沈黙――その間、晴は、返答を待つ自分の鼓動の音すら、はっきりと感じ取れるほどだった。
やがて、部屋の奥から、しわがれた声が返ってきた。
「……珍しい客だな。この屋敷に、生きた人間が訪ねてくるのは、何年ぶりか」
その声には、驚きよりも、むしろ、乾いた諦観に似た響きがあった。
晴は、ゆっくりと、戸を開けた。
部屋の中には、白髪の老人が、囲炉裏のような、簡素な火の前に、座っていた。
着古した着物は、あちこちが繕われており、長い年月、大切に着続けられてきたことが窺えた。
深く刻まれた皺の一本一本が、その顔に、幾重にも重なる歳月を、物語っている。
だが、その目は、驚くほど、澄んでいた。
曇りのない、真っ直ぐな眼差しが、戸口に立つ晴を、静かに見据えていた。
部屋の壁際には、崩れかけていない、頑丈そうな木箱がいくつか並び、簡素な寝具が、部屋の隅に、畳まれて置かれている。
囲炉裏の煙は、天井の破れ目から、細く立ち上り、そのまま、外へと抜けていくようだった。
この部屋だけが、廃墟の中で、辛うじて、人の生活を、保っていた。
「――君は誰だね」
老人が、静かに、そう問い返してきた。
晴は、居住まいを正し、火のそばの、老人と向き合う位置に、片膝をついた。
「天宮晴と申します。もともとの姓は、東雲です」
晴は、一度、言葉を切り、老人の反応を、確かめた。
老人は、僅かに、目を細めただけで、先を促すように、黙っていた。
「氷雨灯という女性のことで、伺いました。彼女を、どうしても、救いたいんです」
その言葉に、老人は、大きく、目を見開いた。
しばらくの間、何も言えないまま、晴の顔を、まじまじと見つめている。
囲炉裏の炎が、二人の間で、静かに、揺らめいていた。
「――東雲。それに、灯の、名を」
老人は、そう繰り返すと、深く、息を吐いた。
「そうか……そういう、繋がりか」
その呟きには、驚きと、どこか納得したような響きが、入り混じっていた。
晴は、老人が落ち着くのを待ってから、続けた。
「灯は、国家に、危険人物として、隔離施設に収容されています。俺は、その場所を、探しています。もし、何か、ご存知でしたら――教えていただけないでしょうか」
老人は、しばらく、目を伏せた。
囲炉裏の火に、小さく、視線を落としている。
「――すまんが、それは、わしにもわからん。この屋敷に籠って、もう長い。外の情報は、何一つ、入ってこない」
その答えに、晴の肩から、僅かに、力が抜けた。
落胆を、隠しきれなかった。
「――そう、ですか」
「だが」
老人は、そう言うと、晴に、火のそばに座るよう、促した。
晴は、戸惑いながらも、その言葉に従い、腰を下ろした。
「場所は、わからずとも、力になれることが、あるかもしれん。まずは、名乗らせてくれ。わしは、氷雨蒼一郎。灯の、祖父にあたる者だ」
その一言に、晴は、思わず、息を呑んだ。
「――灯の、祖父」
「ああ。会ったことは、一度もないがな」
蒼一郎は、そう言うと、静かに、笑った。
それは、寂しさと、それでもなお消えない温かさが、同居する笑みだった。
「環という女性が、あの子を引き取ったことは、風の噂で聞いている。元気にしているとも。だが、まさか、こんな形で、あの子の名を聞くことになるとはな」
晴は、灯が置かれている状況を、できる限り、詳しく、蒼一郎に伝えた。
危険指定を受けたこと、専属監視体制が解かれ、隔離施設に収容されたこと、そして、自分がすでに、調律省を離れていること。
蒼一郎は、その話を、時折、目を閉じながら、最後まで、静かに、聞いていた。
囲炉裏の薪が、時折、小さく爆ぜる音だけが、二人の間を、埋めていった。
「――やはり、な」
話を聞き終えた蒼一郎は、深く、息を吐いた。
その声には、これまでとは違う、重い覚悟のようなものが、滲んでいた。
「お前が、なぜ、ここまでするのか。まずは、それを、聞かせてくれるか」
晴は、迷わず、答えた。
「灯を、愛しているからです。それ以外に、理由はありません」
その率直な答えに、蒼一郎は、しばらく、晴の顔を見つめていた。
それから、静かに、頷いた。
「――よかろう」
蒼一郎は、囲炉裏の火に、新しい薪を、一本、くべた。炎が、僅かに、勢いを増した。
「この屋敷には、一族に伝わる記録が、まだ、残っている。お前が、本当に、あの子を助けたいと思うのなら――それを、持って行くがいい。だが、その前に」
蒼一郎は、晴の目を、まっすぐに見据えた。
「お前にも、聞いておいてもらいたい話がある。これは、始まりの物語だ」
窓の外、夕暮れの光が、少しずつ、色を失い始めていた。晴は、居住まいを正し、蒼一郎の言葉に、静かに、耳を傾ける構えを取った。




