第四十話「山間への道」
支局を離れた翌日、晴は、環のノートに描かれた、簡素な地図を頼りに、北へと向かっていた。
朝一番の乗合馬車に乗り込むと、車内には、すでに数人の乗客がいた。
行商人らしき男、大きな荷物を抱えた老婆。
誰もが、晴には目もくれず、それぞれの目的地に向かう、ただの一日を過ごしていた。
晴は、その何気ない日常の空気に、少しだけ、違和感を覚えた。
自分だけが、まったく違う種類の時間を、歩み始めているような感覚だった。
馬車は、七番区を抜け、これまで晴が足を踏み入れたことのない、街の外縁へと進んでいく。
もう、調律省の身分証で行動を証明する必要もない。
だが、その自由さは、同時に、これまで自分を支えていた後ろ盾が、何一つ、なくなったことの裏返しでもあった。
晴は、その事実を、噛み締めながら、馬車の窓の外を、静かに眺めていた。
窓の外の景色は、時間が経つにつれ、少しずつ、様変わりしていった。
最初は、見慣れた煉瓦造りの家々が続いていたが、やがて、それも疎らになり、代わりに、畑と、点在する農家の風景が広がり始めた。
空の色も、心なしか、七番区のものとは、違って見えた。雲の流れが速く、時折、遠くの空に、小さな雨雲が浮かんでは消えていく。
この地方に住む、誰かの、日々の感情の揺らぎなのだろう。
馬車の揺れに身を任せながら、晴は、懐から、環のノートを取り出した。
手擦れした革表紙を、指先で、そっとなぞる。
ページを開くたびに、環の几帳面な筆跡が、目に飛び込んでくる。
晴は、幾度となく確かめた道筋を、もう一度、丁寧に、頭の中でなぞり直した。
昼近く、馬車は、終着の村に到着した。
御者が、ここから先は、この馬車では行けないと告げた。
晴は、御者に礼を言い、荷物を背負い直すと、徒歩での道のりを、歩き始めた。
村を抜けると、道は、次第に、舗装のない、土と岩がむき出しの山道へと変わっていく。
周囲の木々は、七番区周辺で見かけるものとは、明らかに種類が違った。
葉の色も、心なしか、くすんで見える。
この一帯もまた、十八年前の大嵐の余波を、今も受け続けているのかもしれなかった。
道は、緩やかな上りが続いていた。
息が、次第に、上がってくる。
晴は、時折立ち止まり、額の汗を拭いながら、ノートの地図と、周囲の景色を、何度も、照らし合わせた。
地図に記された目印――曲がりくねった川、古い橋の跡――を、一つ一つ、慎重に確かめながら、歩を進めていった。
途中、道端に、朽ちた道標のようなものを見つけた。
文字は、すでに、風化して読めなくなっている。
それでも、その存在自体が、かつて、ここが人の行き来する道だったことを、静かに物語っていた。
鳥の鳴き声が、時折、頭上から降ってくる。
それ以外には、風が木々を揺らす音だけが、あたりを満たしていた。
人の営みの気配が、少しずつ、遠ざかっていくのを、晴は、肌で感じ取っていた。
太陽が、中天を過ぎた頃、晴の額には、汗が、幾筋も伝っていた。
荷物の重みが、肩に、じんわりと食い込んでくる。それでも、足を止めるわけにはいかなかった。
道は、いつしか、獣道に近い、細い踏み跡へと変わっていた。
木の根が、あちこちで、地面を這うように盛り上がり、晴は、その一つ一つを、注意深く、避けながら進んだ。
時折、視界が開け、遠く眼下に、これまで歩いてきた道のりが、一望できる場所もあった。
首都圏の方角には、うっすらと、中央塔の影らしきものが、霞んで見えた。
その光景に、晴は、しばらく、足を止めた。
あの街のどこか、あるいは、まったく別の場所――いまだ特定すらできていない、どこかの白い部屋で、灯が、今も、囚われているかもしれない。
その事実が、改めて、晴の胸を、重く締め付けた。
――待っていてください。
晴は、そう、心の中で、静かに呟いた。それから、再び、前を向いて、歩き出した。
昼を過ぎた頃、晴は、川沿いの、崩れかけた古い橋に、辿り着いた。
ノートの地図と照らし合わせると、目的地は、この橋を渡った先にあるはずだった。
橋は、木製の欄干が、ところどころ、朽ち果てて崩れ落ちている。
足元の板も、踏むたびに、不吉な軋みを立てた。
晴は、慎重に、一歩ずつ、足を進めた。眼下には、川の水が、静かに、けれど絶え間なく、流れ続けている。
水音だけが、周囲の静寂を、辛うじて、埋めていた。
橋を渡り切るまでの、その僅かな時間が、晴には、ひどく長く感じられた。
橋を渡り終えると、視界の先に、かつては集落だったと思われる、朽ちた家々の跡が、いくつか、見えてきた。
屋根が崩れ、壁が半ば崩壊した建物が、雑草に埋もれるようにして、点在している。
人の気配は、まったく感じられなかった。
風が吹くたびに、朽ちた木材が、微かに軋む音を立てるだけだった。
夕暮れが、少しずつ、近づいていた。
空は、橙色から、深い紫色へと、緩やかに、色を変え始めている。
晴は、その集落跡の入り口に立ち、しばらくの間、動けずにいた。
ここに、灯の一族の、本来の住まいがある。
晴は、その事実を、改めて、噛み締めた。
それから、崩れかけた集落の中へと、静かに、足を踏み入れていった。




