第三十九話「調べ尽くした先」
環のノートを手がかりに、晴は、支局の資料庫に、連日、通い詰めていた。
氷雨家旧邸に関する記述の裏付けを取れないか。
あるいは、隔離施設についての、何か新しい手がかりが見つからないか
――非番の日はもちろん、通常業務の合間を縫っては、晴は、地上階の資料庫に、足を運び続けていた。
窓のない部屋、埃っぽい空気の中で、幾度となく、同じ棚の間を、往復した。
だが、探せば探すほど、晴は、この場所の限界を、思い知らされることになった。
「――ここには、もう、何もない」
ある夜、晴は、積み上げたファイルの前で、静かに、そう呟いた。
氏族の戸籍記録、大嵐当時の資料、福祉部門の古い書類
――この資料庫に保管されている、灯や自分自身に関わる記録は、すでに、ほとんど、目を通し尽くしていた。
指先には、長年の埃が、白くこびりついている。
新たに見つかったのは、断片的な情報ばかりだった。
それ以上の、決定的な手がかりは、この支局の中には、もう、存在していないようだった。
国家機密として扱われる情報――隔離施設の正確な所在地、大嵐の詳細な真相――は、末端の支局が保管できる範囲を、はるかに超えているのだろう。
晴は、埃をかぶったファイルを、棚に、静かに戻した。
乾いた紙同士が擦れる音が、静かな資料庫に、小さく響いた。
これ以上、ここに留まっていても、得られるものは、もう、ない。
その事実を、晴は、何度も、自分の中で、確かめ直した。
資料庫の照明を消し、暗い廊下を歩きながら、晴は、これまでの日々を、一つ一つ、振り返っていた。
支局に籍を置いたまま、できることは、すべて、やり尽くした。
玲との連携、資料庫の記録、環から託されたノート――それらすべてを組み合わせても、たどり着ける先は、ここまでだった。
残された道は、二つに一つだった。
このまま、支局の中に留まり、上からの指示を、大人しく待ち続けるか。
あるいは、自分の足で、直接、真実に近づいていくか。
晴の答えは、すでに、決まっていた。
――俺は、待っているだけの人間には、もう、なれない。
灯が、あの白い部屋のような場所で、今この瞬間も、何かに耐え続けているかもしれない。
その間、自分だけが、安全な場所で、規定に守られながら、時間を浪費することなど、晴には、到底、できそうになかった。
自室に戻った晴は、その夜、一睡もせずに、窓の外を見つめ続けていた。
夜明けが近づくにつれ、これから起こすことになる行動への迷いよりも、むしろ、これまでの迷いのなさ
――なぜ、もっと早く、この決断をしなかったのか、という後悔にも似た思いが、晴の中に、静かに広がっていった。
翌朝、晴は、支局長室の扉を、静かに叩いた。
「――話が、あります」
椎名は、机の向こうから、晴の顔を、じっと見つめた。
その表情には、何かを、すでに察しているような、諦めに似た色が浮かんでいた。
窓から差し込む朝の光が、椎名の白髪交じりの髪を、僅かに白く縁取っていた。
「言ってみろ」
晴は、深く息を吸い込み、その言葉を、口にした。
「俺は、調律省を、辞めます」
その一言は、静かな支局長室に、確かな重みを持って、響き渡った。
椎名は、しばらくの間、何も言わなかった。
机の上で組んだ指先を、無言のまま、見つめている。
「――理由は、聞くまでもないな」
「はい」
「規定違反の累積、上層部からの心証の悪化。お前が、このまま籍を置き続けても、今以上に、できることは、限られている。それは、俺にも、わかっている」
椎名の声には、責めるような響きはなかった。
むしろ、そこには、これまでの晴の働きぶりを見てきた者だけが持つ、複雑な労いの色が滲んでいた。
「一つだけ、聞かせてくれ」
「――何でしょうか」
「辞めた後、お前は、何をするつもりだ」
晴は、一瞬、言葉に詰まった。
だが、迷いは、すぐに消えた。
「灯を、取り戻します。正規の手段が使えないなら、俺自身の足で」
その答えに、椎名は、深く、息を吐いた。
呆れとも、諦めとも、あるいは、僅かな敬意ともつかない、複雑な吐息だった。
「……馬鹿な奴だ」
その一言は、しかし、これまでのどの言葉よりも、柔らかく、晴の耳に届いた。
退職の手続きは、驚くほど、あっさりと進んだ。
制服を返却し、身分証を提出する。
これまで身につけていた調律省の詰襟コートを脱ぎ、私物のシャツに着替えた瞬間、晴は、自分が、これまで纏っていたものの重さを、初めて、はっきりと自覚した。
支局の玄関を出る間際、椎名が、廊下の奥から、声をかけてきた。
「――天宮」
「はい」
椎名は、少しの間、言葉を選ぶように、黙っていた。
それから、ぶっきらぼうに、視線を逸らしたまま、続けた。
「……無理はするなよ。それと」
「はい」
「もし、うまくいかなかったり、行き詰まったりしたら。いつでも、戻ってこい。籍がなくなっても、お前の居場所が、ここに一つもなくなるわけじゃない」
その不器用な一言に、晴は、思わず、足を止めた。
椎名らしくない、けれど、確かに、椎名らしい言葉だった。
「――ありがとうございます」
晴は、深く頭を下げた。振り返らずに、支局室の扉を、静かに、後にした。
支局室を出た晴は、その足で、玲を探した。
廊下の奥、いつもの資料室で、玲は、一人、書類に目を通していた。
「――話がある」
晴が声をかけると、玲は、顔を上げた。
私服姿の晴を見て、その表情が、みるみるうちに、強張っていった。
「――辞めたのか」
「はい。今日付けで」
玲は、しばらく、言葉を失っていた。
書類を持つ手が、僅かに、震えている。
「――なんで、先に、言わなかった」
その声には、これまでの玲からは、想像できないほどの、動揺が滲んでいた。
「相談する時間が、惜しかったので」
「時間が惜しい、って」
玲は、書類を、机に、乱暴に叩きつけた。
紙の束が、音を立てて、崩れ落ちた。
「私は、お前のために、規定を破ってまで、動いてたんだぞ。それなのに、大事なことを、何一つ、相談もせずに――」
玲の声が、そこで、一瞬、詰まった。
感情の昂ぶりを抑えきれないというように、彼女は、拳を、強く握りしめた。
「――全部、あの子のためなんだろう」
玲の声は、震えていた。
これまで、決して見せなかった、剥き出しの感情が、そこにあった。
「灯のためなら、お前は、何もかも、簡単に捨てられるんだな。同期としての立場も、私との関係も」
「――玲」
「行かないで」
その一言は、玲自身にとっても、予期していなかったもののように、口をついて出た。
玲は、はっと、自分の言葉に、気づいたような表情を見せた。
だが、もう、止まらなかった。
「行かないでよ、晴。私、ずっと――ずっと、お前のことが、好きだった」
その告白は、静かな資料室に、痛いほどの重みを持って、響き渡った。
玲の瞳には、涙が、薄く滲んでいた。
それでも、彼女は、逸らすことなく、まっすぐに、晴を見つめ続けていた。
晴は、しばらくの間、何も言えずにいた。
その想いの重さを、正面から受け止めながら、彼の中には、それでも、揺らがない一つの答えが、すでに、あった。
「――ごめん」
その一言は、短かったが、確かな痛みを伴っていた。
玲の表情が、静かに、崩れていった。
「俺の心は、もう、灯のものです。それは、変えられません」
玲は、何も、言い返さなかった。
ただ、俯いたまま、肩を小さく震わせていた。
晴は、その姿をしばらく見つめていた。
だが、これ以上ここに留まることは、玲にとっても、自分にとっても、正しいことではないように思えた。
「環さんのこと、よろしくお願いします」
晴は、深く、頭を下げた。
玲からの返事は、なかった。
晴は、それ以上、何も言わず、静かに資料室を後にした。
支局を出た晴の足取りに、もう、迷いはなかった。
外に出ると、七番区の方角に、あの日から続く雲が、今日もまだ、重く垂れ込めていた。
だが、その雲の向こうに、これから自分が進むべき道が、確かに見え始めていた。
振り返ることはしなかった。
振り返れば、今、自分がどれだけの人の想いの上に立っているのかを、思い知らされてしまう気がした。
晴は、ただ、前だけを見て歩き出した。




