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空が壊れるほどの恋だった  作者: Kakou
【第二部】第一章
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第三十九話「調べ尽くした先」

環のノートを手がかりに、晴は、支局の資料庫に、連日、通い詰めていた。


氷雨家旧邸に関する記述の裏付けを取れないか。

あるいは、隔離施設についての、何か新しい手がかりが見つからないか

――非番の日はもちろん、通常業務の合間を縫っては、晴は、地上階の資料庫に、足を運び続けていた。

窓のない部屋、埃っぽい空気の中で、幾度となく、同じ棚の間を、往復した。


だが、探せば探すほど、晴は、この場所の限界を、思い知らされることになった。



「――ここには、もう、何もない」


ある夜、晴は、積み上げたファイルの前で、静かに、そう呟いた。

氏族の戸籍記録、大嵐当時の資料、福祉部門の古い書類

――この資料庫に保管されている、灯や自分自身に関わる記録は、すでに、ほとんど、目を通し尽くしていた。

指先には、長年の埃が、白くこびりついている。


新たに見つかったのは、断片的な情報ばかりだった。

それ以上の、決定的な手がかりは、この支局の中には、もう、存在していないようだった。

国家機密として扱われる情報――隔離施設の正確な所在地、大嵐の詳細な真相――は、末端の支局が保管できる範囲を、はるかに超えているのだろう。


晴は、埃をかぶったファイルを、棚に、静かに戻した。

乾いた紙同士が擦れる音が、静かな資料庫に、小さく響いた。

これ以上、ここに留まっていても、得られるものは、もう、ない。



その事実を、晴は、何度も、自分の中で、確かめ直した。

資料庫の照明を消し、暗い廊下を歩きながら、晴は、これまでの日々を、一つ一つ、振り返っていた。


支局に籍を置いたまま、できることは、すべて、やり尽くした。

玲との連携、資料庫の記録、環から託されたノート――それらすべてを組み合わせても、たどり着ける先は、ここまでだった。


残された道は、二つに一つだった。

このまま、支局の中に留まり、上からの指示を、大人しく待ち続けるか。

あるいは、自分の足で、直接、真実に近づいていくか。


晴の答えは、すでに、決まっていた。


――俺は、待っているだけの人間には、もう、なれない。


灯が、あの白い部屋のような場所で、今この瞬間も、何かに耐え続けているかもしれない。

その間、自分だけが、安全な場所で、規定に守られながら、時間を浪費することなど、晴には、到底、できそうになかった。


自室に戻った晴は、その夜、一睡もせずに、窓の外を見つめ続けていた。

夜明けが近づくにつれ、これから起こすことになる行動への迷いよりも、むしろ、これまでの迷いのなさ

――なぜ、もっと早く、この決断をしなかったのか、という後悔にも似た思いが、晴の中に、静かに広がっていった。



翌朝、晴は、支局長室の扉を、静かに叩いた。


「――話が、あります」


椎名は、机の向こうから、晴の顔を、じっと見つめた。

その表情には、何かを、すでに察しているような、諦めに似た色が浮かんでいた。

窓から差し込む朝の光が、椎名の白髪交じりの髪を、僅かに白く縁取っていた。


「言ってみろ」


晴は、深く息を吸い込み、その言葉を、口にした。


「俺は、調律省を、辞めます」


その一言は、静かな支局長室に、確かな重みを持って、響き渡った。


椎名は、しばらくの間、何も言わなかった。

机の上で組んだ指先を、無言のまま、見つめている。


「――理由は、聞くまでもないな」


「はい」


「規定違反の累積、上層部からの心証の悪化。お前が、このまま籍を置き続けても、今以上に、できることは、限られている。それは、俺にも、わかっている」


椎名の声には、責めるような響きはなかった。

むしろ、そこには、これまでの晴の働きぶりを見てきた者だけが持つ、複雑な労いの色が滲んでいた。


「一つだけ、聞かせてくれ」


「――何でしょうか」


「辞めた後、お前は、何をするつもりだ」


晴は、一瞬、言葉に詰まった。

だが、迷いは、すぐに消えた。


「灯を、取り戻します。正規の手段が使えないなら、俺自身の足で」


その答えに、椎名は、深く、息を吐いた。

呆れとも、諦めとも、あるいは、僅かな敬意ともつかない、複雑な吐息だった。


「……馬鹿な奴だ」


その一言は、しかし、これまでのどの言葉よりも、柔らかく、晴の耳に届いた。



退職の手続きは、驚くほど、あっさりと進んだ。

制服を返却し、身分証を提出する。

これまで身につけていた調律省の詰襟コートを脱ぎ、私物のシャツに着替えた瞬間、晴は、自分が、これまで纏っていたものの重さを、初めて、はっきりと自覚した。


支局の玄関を出る間際、椎名が、廊下の奥から、声をかけてきた。


「――天宮」


「はい」


椎名は、少しの間、言葉を選ぶように、黙っていた。

それから、ぶっきらぼうに、視線を逸らしたまま、続けた。


「……無理はするなよ。それと」


「はい」


「もし、うまくいかなかったり、行き詰まったりしたら。いつでも、戻ってこい。籍がなくなっても、お前の居場所が、ここに一つもなくなるわけじゃない」


その不器用な一言に、晴は、思わず、足を止めた。

椎名らしくない、けれど、確かに、椎名らしい言葉だった。


「――ありがとうございます」


晴は、深く頭を下げた。振り返らずに、支局室の扉を、静かに、後にした。



支局室を出た晴は、その足で、玲を探した。

廊下の奥、いつもの資料室で、玲は、一人、書類に目を通していた。


「――話がある」


晴が声をかけると、玲は、顔を上げた。

私服姿の晴を見て、その表情が、みるみるうちに、強張っていった。


「――辞めたのか」


「はい。今日付けで」


玲は、しばらく、言葉を失っていた。

書類を持つ手が、僅かに、震えている。


「――なんで、先に、言わなかった」


その声には、これまでの玲からは、想像できないほどの、動揺が滲んでいた。


「相談する時間が、惜しかったので」


「時間が惜しい、って」


玲は、書類を、机に、乱暴に叩きつけた。

紙の束が、音を立てて、崩れ落ちた。


「私は、お前のために、規定を破ってまで、動いてたんだぞ。それなのに、大事なことを、何一つ、相談もせずに――」


玲の声が、そこで、一瞬、詰まった。

感情の昂ぶりを抑えきれないというように、彼女は、拳を、強く握りしめた。



「――全部、あの子のためなんだろう」


玲の声は、震えていた。

これまで、決して見せなかった、剥き出しの感情が、そこにあった。


「灯のためなら、お前は、何もかも、簡単に捨てられるんだな。同期としての立場も、私との関係も」


「――玲」


「行かないで」


その一言は、玲自身にとっても、予期していなかったもののように、口をついて出た。

玲は、はっと、自分の言葉に、気づいたような表情を見せた。

だが、もう、止まらなかった。


「行かないでよ、晴。私、ずっと――ずっと、お前のことが、好きだった」


その告白は、静かな資料室に、痛いほどの重みを持って、響き渡った。

玲の瞳には、涙が、薄く滲んでいた。

それでも、彼女は、逸らすことなく、まっすぐに、晴を見つめ続けていた。


晴は、しばらくの間、何も言えずにいた。

その想いの重さを、正面から受け止めながら、彼の中には、それでも、揺らがない一つの答えが、すでに、あった。


「――ごめん」


その一言は、短かったが、確かな痛みを伴っていた。

玲の表情が、静かに、崩れていった。


「俺の心は、もう、灯のものです。それは、変えられません」


玲は、何も、言い返さなかった。

ただ、俯いたまま、肩を小さく震わせていた。

晴は、その姿をしばらく見つめていた。

だが、これ以上ここに留まることは、玲にとっても、自分にとっても、正しいことではないように思えた。


「環さんのこと、よろしくお願いします」


晴は、深く、頭を下げた。

玲からの返事は、なかった。

晴は、それ以上、何も言わず、静かに資料室を後にした。



支局を出た晴の足取りに、もう、迷いはなかった。

外に出ると、七番区の方角に、あの日から続く雲が、今日もまだ、重く垂れ込めていた。

だが、その雲の向こうに、これから自分が進むべき道が、確かに見え始めていた。


振り返ることはしなかった。

振り返れば、今、自分がどれだけの人の想いの上に立っているのかを、思い知らされてしまう気がした。

晴は、ただ、前だけを見て歩き出した。

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