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空が壊れるほどの恋だった  作者: Kakou
【第二部】第一章
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第三十八話「他者の声」

ある日、白い部屋の扉が、いつもと違う時刻に開いた。


「反応が安定した。集団棟に移動する」


職員の一人が、初めて、灯に向かって、短く言葉を発した。

感情のこもらない、事務的な声だった。

灯は、その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。

だが、抵抗する気力も、すでに、残ってはいなかった。

促されるまま、灯は、拘束具のついた手首を、大人しく差し出した。


連れて行かれた先は、これまでの独房とは、明らかに違う造りの建物だった。

長い廊下の両脇に、いくつもの部屋が並び、共有スペースらしき広間には、簡素な長机と椅子が、いくつも置かれている。

天井は、独房よりも高く、窓こそないものの、換気口の数が多いのか、空気の流れが、僅かに感じられた。灯と同じ、灰色がかった白の貫頭衣を纏った人々が、そこかしこに、座っていた。


――みんな、大人だ。


灯は、その光景に、思わず、息を呑んだ。

広間にいる誰もが、灯よりも、ずっと年上に見えた。

誰も彼もが、一様に、生気の薄い表情をしている。

談笑する声も、なくはなかったが、それすら、どこか、力なく乾いて聞こえた。


だが、廊下の奥、少し離れた一角からは、幼い声が、微かに、響いてくることに、灯は程なくして気づいた。

職員に尋ねると、その一角には、教室のような部屋があり、小学生ほどの年頃の子供たちが、何人もそこで過ごしているのだという。


「子供は作業にはまだ就かせられない。だから、あちらで勉学を学ばせている」


職員は、そう、事務的に説明した。

灯は、その言葉に、複雑な思いを抱いた。

この場所には、大人だけでなく、右も左もわからないような、幼い子供たちまでもが、収容されているのだという事実が、これまで感じていた絶望に、また一つ、重みを加えた。


灯に割り当てられたのは、共有の作業場だった。

施設内で使う布製品――シーツや、作業着――を、繕う仕事だという。

長机には、山積みになった布と、裁縫箱が、いくつも並べられていた。

針と糸を渡され、灯は、見よう見まねで、隣に座る中年の女性の手元を、真似た。

指先が、思うように動かず、何度も、針を落としそうになった。


「――新入りかい」


その女性が、針を動かしながら、ぽつりと、話しかけてきた。

手の甲には、長年の労働を思わせる、深い皺が刻まれている。


「はい」


「あたしは、もう三年になるよ。隣町で、亭主と喧嘩した時に、家一軒分の瓦が吹き飛ぶくらいの風を起こしちまってね」


女性は、自嘲するように、笑った。

灯は、その笑い方に、どこか、覚えのある寂しさを感じた。

それは、かつて、環の家の写真の中で、幼い自分自身が浮かべていたのと、似たような種類の笑みだった。


作業場には、他にも、様々な人々がいた。

長机の向こうで、黙々と手を動かす男は、職場の同僚との衝突がきっかけで、感情の反応が閾値を超え、そのまま連行されたのだという。

窓際の椅子に、俯きがちに座る老人は、長年連れ添った伴侶を亡くした悲しみが、あまりに大きすぎたことが、収容の理由だった。

灯は、それぞれの事情を、断片的に、耳にするたびに、胸の奥が、静かに軋むのを感じた。


誰もが、特別に悪いことをしたわけではなかった。

ただ、感情が、人よりも少し、大きかっただけだった。



「――面会は、できないんですか」


灯が、隣の女性に尋ねると、彼女は、針を動かす手を止めずに、答えた。

糸を引く、しゅる、という微かな音だけが、しばらく、二人の間を埋めた。


「できないねぇ。少なくとも、あたしは、この三年、誰にも会えちゃいない」


「出ることは」


「聞いたことないね。反応が完全に消えれば、外に出されるって噂もあるけど……それって、つまり」


女性は、それ以上、言葉を続けなかった。

手にした針を、布に、深く刺し込んだまま、しばらく、動かさなかった。

灯は、その沈黙の意味を、痛いほど、理解した。

反応が消える、ということは、感情そのものが、失われるということだ。

それは、外に出られることと、引き換えにできるような、軽いものではなかった。


灯の中に、これまでとは違う種類の絶望が、静かに、広がっていった。

手の中の針が、急に、重く感じられた。



作業場の隅、職員の一人が、一人の少女に、何やら声をかけているのが見えた。

少女は、面倒くさそうに、生返事を返している。


「六花。あの新入り、あんたと歳が近いから、面倒見てやりなさい」


「――は。なんで、あたしが」


六花と呼ばれた少女は、露骨に、顔をしかめた。

それでも、職員が立ち去ると、大きなため息をつきながら、灯の方へと、のろのろと歩いてきた。

灰色の貫頭衣を、だるそうに着崩し、袖も、片方だけ、まくり上げたままになっている。


「……灯、だっけ」


「はい」


「あたし、六花りっか。別に、仲良くする気とかないから。上に言われたから、来ただけ」


その口調には、刺々しさというより、すべてに対する、深い諦めのようなものが滲んでいた。

目に、生気らしい生気が、あまり感じられない。

まるで、これ以上、何かを期待することを、とうの昔にやめてしまったかのような目だった。

灯は、その様子に、少し戸惑いながらも、小さく頷いた。


「――わかりました」


「わかればいい」


六花は、灯の隣の椅子に、投げ出すように腰を下ろした。

それきり、しばらくは、何も話しかけてこなかった。

腕を組み、椅子の背にもたれて、天井を、ぼんやりと眺めている。

だが、灯が、繕い物の針の扱いに手こずっているのを見ると、六花は、面倒くさそうな声のまま、それでも、視線だけは、灯の手元を、覗き込んできた。


「――下手くそ。貸して」


六花は、灯の手から、半ば強引に、布と針を取り上げた。

文句を言いながらも、その手つきは、驚くほど丁寧で、慣れていた。

あっという間に、乱れていた縫い目が、綺麗に整えられていく。

糸の張り具合、針の角度

――一つ一つの動きに、迷いがなかった。


「……こう。糸を、引きすぎない。わかった?」


「――ありがとう、ございます」


「別に。ただ、下手なの見てると、イライラするだけ」


そう言いながらも、六花は、灯が真似できるまで、何度も、同じ手順を、繰り返し見せてくれた。

その面倒見の良さは、本人の口調とは、まるで、裏腹だった。

時折、灯の指先が布を傷つけそうになると、六花は、何も言わずに、さっと手を伸ばして、それを制した。


「六花さんは、いつから、ここに」


「もう、五年くらいかな。数えるの、やめちゃった」


その言葉を、六花は、抑揚のない声で、あっさりと口にした。

灯は、その平坦さの奥に、彼女がすでに、多くのものを、諦めてしまっていることを、感じ取った。

二年という歳月が、目の前の少女から、どれだけのものを、削ぎ落としてきたのか

――灯には、想像することしか、できなかった。


「これから、色々、面倒なことも聞かれるだろうけど。まあ、適当に、やり過ごしな」


突き放すような言い方だったが、その言葉の端々には、灯を気遣うような響きが、確かに、滲んでいた。

灯は、その不器用な優しさに、久しぶりに、心の奥が、僅かに、緩むのを感じた。

作業場の窓のない壁に、規則正しい照明の光だけが、二人の手元を、静かに照らしていた。

この白く、感情を失っていく場所の中で、初めて出会った、同年代の存在。

それは、灯にとって、小さいけれど、確かな、光の粒だった。

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