第三十七話「白い部屋」
灯が目を覚ました時、そこは、これまで見たことのない、白い部屋だった。
窓はなく、四方の壁も、天井も、すべてが、同じ色の白で統一されている。
継ぎ目すら見当たらない、滑らかな壁面。
簡素なベッドが一つ、それ以外には、机も椅子もない。
天井の照明は、常に、同じ明るさで灯り続けていた。空気は、乾いていて、どこか、消毒液に似た、かすかな匂いがした。
灯は、しばらくの間、自分がどこにいるのか、理解できずにいた。
だが、ゆっくりと、記憶が戻ってくるにつれ、あの夜の出来事が、鮮明に蘇ってきた。
環の家に踏み込んできた職員たち。
拘束されていく晴の姿。連れ去られる自分。
あの瞬間の混乱と恐怖が、今も、体の芯に、重く残っていた。
自分の体を見下ろすと、あの夜に着ていた服は、どこにもなかった。
代わりに、灰色がかった白の、簡素な貫頭衣のようなものを、身につけさせられていた。
装飾は一切なく、生地は薄く、素肌に、じかに触れる感触がした。
環が縫ってくれたカーディガンも、いつも身につけていた小物も、何もかもが、取り上げられていた。
まるで、灯という人間を形作っていたものすべてを、この部屋に入る前に、剥ぎ取られてしまったかのようだった。
その事実が、はっきりと腑に落ちた瞬間、灯の中で、抑えきれない感情が、一気に噴き出した。
「――返して!晴さんを、環おばさんを、私の生活を、全部返して!!」
灯は、白い壁に向かって、拳を、何度も叩きつけた。声が、嗄れるまで、叫び続けた。
涙が、止めどなく溢れ、頬を伝った。
部屋のどこかで、感情の昂ぶりを検知したのだろう、天井の観測装置が、微かな音を立てて、点滅した。
しばらくして、扉が開き、白い制服の職員が、二人、部屋に入ってきた。
何も言わず、灯の腕を取り、専用の器具を、静かに当てる。灯が抵抗する間もなく、意識が、ゆっくりと、霞んでいった。
次に気づいた時には、激しかったはずの怒りは、まるで、遠い記憶のように、輪郭を失っていた。
それから、同じことが、幾度となく、繰り返された。
目が覚めるたびに、灯の中には、怒りが、悲しみが、あるいは、名前のつけようのない衝動が、繰り返し、込み上げてきた。
壁を叩いた日もあれば、声も出せずに、ただ涙だけを流し続けた日もあった。
数えるのをやめてしまうほど、何度も、何度も、その波は、灯を襲い続けた。
そのたびに、観測装置が反応し、職員が現れ、器具が、静かに、灯の感情を押し流していった。
器具の冷たい感触、意識が霞んでいく、あの独特の浮遊感
――その一連の流れは、繰り返されるごとに、灯の中に、否応なく、刻み込まれていった。
最初の頃は、目が覚めている間じゅう、絶え間なく、何かがせり上がってきた。
声を上げ、壁を叩き、涙を流す
――そのたびに、施術が、待っていた。
だが、繰り返しを重ねるうちに、その波の高さは、少しずつ、確実に、低くなっていった。
十度目を過ぎる頃には、灯は、叫ぶことに、以前ほどの力を込められなくなっていた。
二十度目を過ぎる頃には、涙も、以前ほどには、溢れてこなくなっていた。
灯は、自分の内側にあるはずの感情が、少しずつ、薄い膜で覆われていくような感覚を覚えた。
叫びたいのに、叫べない。
悲しいはずなのに、その悲しみの輪郭が、ぼやけていく。
慣れる、という言葉が、これほど恐ろしいものだとは、灯は、これまで知らなかった。
さらに、数え切れないほどの波を、灯は、越えてきた。
だが、それらの波は、越えるたびに、明らかに、小さくなっていった。
声を上げようとしても、うまく、声が出ない日が、増えていった。
観測装置も、次第に、反応しなくなっていった。
職員が訪れる回数も、目に見えて、減っていった。
その静けさが、灯にとっては、何よりも、恐ろしかった。
誰も来ないということは、自分の感情が、それだけ、"問題にならない"程度にまで、鈍っているということだった。
一日に数回、白い制服を着た職員が、無言で、食事を運んでくる。言葉を交わすことは、一度も許されなかった。
灯が何かを尋ねても、職員は、決まって、何も答えずに、部屋を出ていった。
トレイの上には、いつも同じ、味の薄いスープと、小さなパンだけが、載っていた。
左手首には、以前とは違う、より頑丈な作りの拘束具が、新たに取り付けられていた。
以前のものよりも、重く、そして、外そうとしても、びくともしない。
金属の冷たさが、皮膚に、じっとりと、まとわりついていた。
夜――と思われる時間になると、部屋の照明は、僅かに、暗くなった。
それが、この部屋における、唯一の、時間の指標だった。
灯は、薄暗くなった部屋の中、膝を抱えて、ベッドに横たわっていた。
感情の起伏は、日に日に、小さくなっていく。
それに気づくたび、灯は、必死に、自分の中にある熱を、掻き集めようとした。
晴の顔を、思い浮かべる。彼の、感情の読めない、けれど、決して冷たくはない表情。繋いだ手の温もり。
灯台で見た、あの広い海。
それらの記憶だけは、どれだけ施術を受けても、灯の中から、消えることはなかった。
むしろ、感情の輪郭が薄れていくほど、その記憶だけは、灯の中で、いっそう鮮明さを増していくようだった。
――晴さん、大丈夫だ、必ず、迎えに行く。
あの言葉を、灯は、何度も、心の中で反芻していた。
それだけが、この白い部屋の中で、灯の心を、辛うじて、繋ぎ止めているものだった。
灯は、目を閉じた。
この部屋に据え付けられた観測装置は、感情の動きを、視覚的な天候としてではなく、数値としてのみ拾い上げる特殊な仕様なのだと、灯は、薄々、感じ取っていた。
だからこそ、頭上に浮かぶはずの靄も、この部屋の中では、誰の目にも映らない。
それでも、もし見えたなら、それはきっと、深い青――消えることのない、一筋の希望の色を、していたはずだった。
その小さな熱だけは、灯は、絶対に、手放さないと、静かに、心に誓っていた。




