第三十六話「ノートの記述」
自室に戻った晴は、環から託されたノートを、机の上に広げた。
窓の外は、すでに夜の帳が下りている。
スタンドライトの淡い光だけが、ページを、静かに照らしていた。
部屋の空気は、いつもより、ひんやりと冷たく感じられた。
晴は、上着も脱がないまま、椅子に腰を下ろし、一枚一枚、丁寧に、ページをめくっていった。
環の筆跡は、几帳面でありながら、ところどころ、震えたように歪んでいた。
大嵐当時の新聞記事の書き写し、近所の人々から聞き集めたらしい断片的な証言、そして、東雲家・氷雨家、両家に関する、環自身の推測――そのすべてが、十八年という歳月をかけて、丹念に積み重ねられていた。
ページの端には、インクの染みや、涙が落ちたような、僅かな滲みも見られた。
環が、これを書き記す間、どれほどの想いを抱えていたのか、その痕跡だけでも、晴には、十分すぎるほど伝わってきた。
ページの後半、晴の目は、ある一節に釘付けになった。
ページをめくる手を、思わず止めた。
「氷雨家の本邸は、大嵐後、封鎖されたまま。北部の外れ、旧市街のさらに向こう、山間の集落跡に残されていると聞く」
晴は、その一文を、何度も読み返した。
声に出さずとも、その文字を、口の中で、繰り返しなぞるように追った。
氷雨家旧邸――灯自身も、その存在を、詳しくは知らないはずだった。
環でさえ、伝聞でしか、その所在を知らないらしい書きぶりだった。
文末には、小さく「未確認」の文字が添えられている。
さらにページをめくると、環の手による、簡単な地図のようなものが、描かれていた。
正確さには欠けるが、大まかな方角と、目印となる地形
――曲がりくねった川、古い橋の跡らしき記号が、記されている。
晴は、その地図を、指先で、そっとなぞった。
晴は、ノートを閉じ、しばらく、考え込んだ。
窓の外を見上げると、雲の切れ間から、僅かに、星の瞬きが覗いていた。
隔離施設に関する記述は、まだ、確証に乏しい。
だが、氷雨家旧邸という場所には、灯の一族の、より深い真実が、眠っているかもしれなかった。
もしかすれば、大嵐の真相や、国家が隠したがっている情報の断片が、そこに残されている可能性もある。
だが、それを確かめに行くには、時間が必要だった。
灯が今、収容先で、どのような状況に置かれているのかもわからない中、悠長に、旧邸を探す余裕があるのか
――晴の中で、迷いが生まれた。
机に肘をつき、額に手を当てたまま、晴は、長い間、動けずにいた。
――両方を、同時に進めるしかない。
晴は、そう結論づけた。
玲には、隔離施設の捜索を、引き続き頼る。
自分自身は、非番の日を使って、氷雨家旧邸の手がかりを、追ってみる。
それが、今、晴にできる、精一杯の判断だった。
翌朝、晴は、支局の廊下で、玲と落ち合った。
廊下の窓から差し込む朝の光が、二人の影を、床に長く伸ばしていた。
「――何か、進展は」
玲の問いに、晴は、環から受け取ったノートの存在を、一部だけ、伝えた。
隔離施設に関する記述があったこと。
だが、その出所については、あえて詳しくは語らなかった。
「情報源は、まだ言えません。ですが、信頼できるものです」
玲は、少し訝しげな表情を見せたが、それ以上は、深く追及しなかった。
腕を組み、しばらく、晴の顔を見つめた後、小さく息を吐いた。
「わかった。こちらでも、引き続き調べる。何か動きがあれば、すぐに連絡する」
二人は、それぞれの手がかりを頼りに、別々の方向から、灯を取り戻すための道を、探り始めていた。
晴の懐には、環のノートが、大切にしまわれている。
窓の外、七番区の空には、今日も、厚い雲が垂れ込めていたが、その向こうに、僅かな光の兆しが、確かに見え始めていた。




