第三十五話 「戸棚の中身」
玲からの情報を待つ間、晴は、じっとしていることができずにいた。
支局での通常業務をこなしながらも、晴の頭の中は、常に、灯のことでいっぱいだった。
書類に向かっていても、目で文字を追うばかりで、内容は、少しも頭に入ってこなかった。
夜、支局職員用住宅の自室に戻っても、何も手につかない日々が続いていた。
窓辺の観葉植物にすら、水をやる気力が湧かず、その葉は、以前より、幾分か色を失っていた。
そんなある日、晴は、環の家を訪れた。
何か手がかりがないか、もう一度、環と話しておきたかった。
居間に通された晴を、環は、以前よりもやつれた表情で、迎え入れた。
頬はいっそう痩せこけ、目の下の隈は、深さを増していた。
テーブルの上には、あの夜のまま、しばらく手つかずだったらしい、埃をかぶった小物が、いくつか、目についた。
壁に飾られた灯の幼少期の写真だけが、変わらず、そこにあった。
「――何か、進展はありましたか」
環の問いに、晴は、正直に、玲の協力のこと、だが手がかりはまだ何もないことを、伝えた。
環は、静かに頷いた。
「そうですか」
二人の間に、重い沈黙が流れた。
窓の外、七番区の空は、今日もまた、薄暗い雲に覆われていた。
時計の秒針の音だけが、居間に、規則正しく響いていた。
しばらくの沈黙の後、環は、ふと、居間の隅にある、あの古い木製の戸棚に、視線を向けた。
晴が、以前から気になっていた、あの戸棚だった。
年代物の細工が施された扉には、長年の埃が、薄く積もっている。
「――晴さん」
「はい」
「あなたに、見せていなかったものが、あります」
環は、立ち上がり、戸棚の前に、静かに膝をついた。
鍵を取り出し、震える手で、それを差し込む。
かちり、という小さな音とともに、長年閉ざされていた扉が、開かれた。
蝶番が、僅かに軋んだ音を立てた。
「もう、隠している場合じゃない。灯のためにも」
戸棚の中には、古びた紙の束が、幾つも、丁寧に重ねられていた。
長年、誰の目にも触れることのなかった、その紙特有の、乾いた匂いが、微かに漂ってくる。
環は、その中から、一冊の、革表紙のノートを取り出した。
表紙は、手擦れで、艶を帯びていた。
「これは、私が、灯を引き取った直後から、密かに集めてきた記録です」
環は、そのノートを、晴の前に差し出した。
晴は、震える手で、それを受け取り、ページを開いた。
そこには、大嵐当時の関係者の証言、氷雨家・東雲家に関する断片的な情報、そして――国が管理する隔離施設の、いくつかの所在地らしき記述が、環自身の手で、丁寧に書き留められていた。文字は、几帳面で、けれど、ところどころ、震えたように歪んでいた。
書き記した時の、環の心情が、そのまま滲み出ているようだった。
「――これは」
「万が一の時のために、集めていたものです。いつか、必要になる日が来るかもしれないと思って」
環の声には、長年、一人でこの重荷を抱えてきた者だけが持つ、静かな覚悟が滲んでいた。
「その中に、北部にある施設についての記述があります。確証はありません。ですが」
「――これが、手がかりに、なるかもしれません」
晴は、ノートを、強く握りしめた。
これまで、暗闇の中を、手探りで進んでいるような感覚だった。
だが今、初めて、微かな光が、その先に見え始めていた。
「――これは、俺の手元に、置かせてもらってもいいですか」
晴が尋ねると、環は、少し驚いたように、晴の顔を見た。
「玲さんには、見せないんですか」
晴は、しばらく、言葉を選んだ。
「まだ、確証のない情報です。それに、これは、環さんが、灯のために、一人で集め続けてきたものです。むやみに、他の人の手に渡すのは、違う気がします」
自分の中で、玲を信頼していないわけではなかった。
だが、この記録には、環の十八年間の想いそのものが、詰まっている。
それを軽々しく扱うことは、晴には、できなかった。
「まず、俺自身で、この記述の真偽を、確かめてみます。その上で、必要になれば、玲さんにも相談します」
環は、その言葉に、しばらく、晴の顔を見つめていた。
それから、静かに、頷いた。
「――そうですね。それが、いいかもしれません」
環は、そう言って、ノートを、晴の手に、しっかりと委ねた。
「灯を、お願いします」
その一言に、晴は、深く頭を下げた。
窓の外、七番区の空を覆っていた雲の隙間から、僅かに、光が差し込み始めていた。
それは、まだ小さな光だったが、確かに、これまでの暗闇に、一筋の道筋を示しているようだった。
晴は、ノートを、胸元にしっかりと抱え、環の家を後にした。




