第三十四話「気づいていた男」
中央塔の最上階、忍の執務室には、支局の全記録が、日々、報告として上がってくる。
机の上には、各支局から届いた書類が、几帳面に積み上げられている。
忍は、そのすべてに、一つ一つ、丹念に目を通すことを、長年の習慣としていた。
窓から差し込む午後の光が、書類の山に、規則正しい陰影を落としていた。
その中に、深夜の資料庫への入退室記録があった。
担当者の名は、白鷺玲。
日付は、この一週間で、すでに三度に及んでいた。
記録には、いずれも、深夜零時を過ぎてからの入室時刻が、淡々と記されている。
忍は、その記録を、しばらくの間、無言で見つめていた。
規定違反とまでは言えない。
だが、専属監視官でもない職員が、業務時間外に、繰り返し資料庫へ足を運ぶこと自体、不自然な行動だった。
指先で、書類の端を、無意識に、とんとんと叩きながら、忍は、思考を巡らせていた。
忍には、その理由が、おおよそ、見当がついていた。
忍は、椅子の背に深くもたれ、窓の外に広がる、灰色の街並みを、しばらく眺めていた。
白鷺玲。天宮晴の同期。
氷雨灯の専属監視チームの一員。
そして――忍が、密かに把握している情報によれば、収容が前倒しになった経緯を、誰よりも早く知り得た立場にいた人物。
あの夜、晴が予定外に現場へ居合わせたことは、忍にとっても、想定外の出来事だった。
だが、玲の動きを追う限り、彼女が、その予定外の事態に、少なからず責任を感じているらしいことは、容易に読み取れた。
連日の深夜の資料庫通い、その足取りの必死さが、記録の数字の羅列だけからでも、忍には、はっきりと伝わってきた。
忍は、机の引き出しを、静かに開けた。
中には、他の書類とは明らかに違う、古い一枚の写真が、大切そうに、しまわれていた。
色褪せた、十八年前の写真。
若かりし頃の自分自身と、東雲家・氷雨家、両家の人々が、共に写っている一枚だった。
写真の中の忍は、今よりもずっと若く、まだ、その顔に、今のような硬さは刻まれていなかった。
隣に並ぶ人々の顔ぶれを、忍は、指先でそっとなぞった。
その写真を見つめる忍の目に、これまで誰にも見せたことのない、深い翳りが浮かんでいた。
忍は、写真を、静かに引き出しへと戻した。
木製の引き出しが、微かな音を立てて閉まる。
あの日、忍もまた、何かを見過ごした。
あるいは、見て見ぬふりをした。
その結果が、十八年前の悲劇に、どれほど繋がっていたのか
――今となっては、正確なところは、忍自身にもわからない。
だが、その後悔だけは、これまでの十八年間、一度も、忍の中から消えたことはなかった。
眠れない夜、ふとした瞬間、その記憶は、今でも、忍の胸を、鋭く締め付けた。
玲の行動を、上に報告することは、忍にとって、造作もないことだった。
規定違反の疑いがある、と一言添えるだけで、玲の動きは、すぐに封じられるだろう。
ペンを取り、報告書の欄に、その一文を書き加えるだけの、単純な作業だった。
だが、忍は、報告書に、その一文を、書き加えなかった。
代わりに、忍は、深夜の入退室記録そのものを、通常の週次報告から、意図的に、外すことにした。
誰かが気づけば、いずれ、露見するかもしれない些細な操作だった。
書類の束の中から、該当のページだけを、そっと抜き取る。
それだけの、小さな、けれど確かな決断だった。
だが、忍にできることは、今は、この程度のことしかなかった。
「――同じ過ちを、また、見過ごすのか」
誰に問うでもない呟きが、忍の口から、静かにこぼれた。
執務室には、それに応える者は、誰もいなかった。
その言葉に、明確な答えはなかった。
ただ、忍は、玲の行動を、これからも、静かに見守り続けることを、自分自身の中で、密かに決めていた。
積極的に助けることは、できない。
忍自身の立場が、それを許さなかった。
幹部としての地位、これまで築き上げてきた組織内での信頼
――それらすべてを、一瞬で失う覚悟はない。
だが、見て見ぬふりをすることくらいは、まだ、できる。
それが、忍にできる、精一杯の贖罪だった。
窓の外、七番区の方角に、あの夜以来、晴れることのない雲が、依然として、重く垂れ込めていた。
忍は、その雲を、しばらくの間、無言で見つめ続けていた。
抜き取った書類のページを、忍は、机の引き出しの、写真の隣に、静かにしまい込んだ。




